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「新しい」統合失調症

今日は、統合失調症(分裂病)について簡単に考えてみようと思います。統合失調症っていったい何なんでしょうね。軽度のものから重度のものまでありますし、症状も多彩です。その爆発的な症候にはどこか華々しさのようなものすら感じられますし、その後にやって来る凪のような静けさにもある種の情緒のようなものは感じられるように思います。症状がよくなる人もいれば悪くなる人もいて、その都度の臨床判断などはとても難しい病気でもあるのかもしれないな、とも思います。では、そのような難しい状況において基本となるような骨太の構造の骨格のようなものを求めることはできるでしょうか? そんなことについて考えてみたいです。そこで私は、中井久夫が提唱する「養生」の概念に注目したいと思います。以下、引用です。

養生とは、一般に病いを一気に治療することに対立する概念である。また根本的な治療を直接的に目指すことにも対立する。従って、侵襲性を覚悟してかかる物理化学的衝撃あるいは薬物の劇薬的使用、インテンシヴな精神療法を含めての「外科的な治療」に対立する。また患者主体であって、医師はこれを援助するという含みがある。(中井久夫, 永安朋子, 『中井久夫選集 分裂病の回復と養生』, 星和書店, 2000, p.1 より引用)

以上の文章から、「養生」においては「侵襲性」なるものをできる限り避けていく方針が際立っていることが分かります。言うなれば、もっと穏やかな柔らかい治療を目指す指針がこの概念の中には含まれていますね。患者を治すとは言っても、患者に恫喝まがいの虐待をしたり、薬漬けをしたり、電気ショックを行ったりすることには非常に倫理的な問題があります。それよりなら理想的には穏当な手法によって治療できる方がもっと好ましいことは明白でしょう。そのためには日々勉強し、研究し、治療技能を研鑽し、私たち自身が新しくより良いものになっていく必要があります。地道な改善の積み重ねです。

普通の人にとっては、最新の治療法や知識を常に取り入れ、何事にも最善を尽くすなどということはとても難しいことです。しかし、私たちは少しずつでも現場の医療がもっと良くなるように改善していくべきです。穏やかに、そして柔らかく。実際、医学による知識は常に間違いうるもので万能でもありません。例えば一般に、統合失調症はドーパミン受容体を遮断することで軽減すると言われており、そのためドーパミン受容体遮断剤が薬物療法で使用されることが多いのですが、この説にもある程度の異論はありえるようです。以下、中安信夫の説を引用します。

近年筆者は, chlorpromazine や haloperidol などのドーパミン受容体遮断剤がほとんど無効であるという点から、初期症状の背後にある病態生理にはドーパミン系は関与していないと考えるに至り、ドーパミン以外の系に作用する薬物に初期分裂病の治療薬を求めるようになってきた。 (中安信夫, 『初期分裂病』, 星和書店, 2002, p.112 より引用)

以上の引用文から、少なくとも初期の統合失調症(初期分裂病)の治療においてはドーパミン系がその病態生理に関与していない可能性を想起することができます。つまり、「統合失調症においては確実にドーパミン受容体を遮断しなければならない」とするような固定観念はここに崩れ去ることになります。

このようにどのような摂理もそれが人の手によるものである限りは、移り変わっていきます。もはやどれが正解と言えるのかは定かではありませんが、少なくとも私たちはそうした正解も不正解も分からない茫漠とした砂漠の中で真理としてのオアシスを探し求める旅人であらねばならないのだろうと思います。正確な知識こそが真に人の助けになるものであり、現状の統合失調症への治療のような不完全なそれはたくさんの患者たちを不幸にしてしまうだろうからです。そして、不幸というものはとても悲しい。苦しい。

また、何が真に統合失調症であるのか? という問題にすら現状の私たちの文化の水準では満足な解答を与えることができません。そもそも統合失調症という概念自体が非常に漠然としたものであり、十分に限界づけられていないからです。こうした状況においては、かなりの程度どのような状態の人に対しても統合失調症の診断ができてしまうでしょう。「医学的診断」もまた神の御業ではありませんから、絶対のものではなく、常に変わりうる相対的な概念にすぎないと言えるでしょう。以下の引用文にもそうした分裂病(統合失調症)を巡る混乱した状況がはっきり記述されています。

Bleuler の分裂病群研究以後、分裂病は一つの疾患単位というより、むしろ症候群として把握され、その限界は曖昧となり、漠然と広範囲に用いられる概念となった。 (大橋博司, 安永浩ら, 『精神医学エッセンシャル・コーパス2 日本の名著論文集 精神医学を知る』, 中山書店, p.176 より引用)

分裂病、つまり統合失調症の概念自体が適切に限界づけられずに、広範囲に漠然と使用されている以上は、適切な医学的診断ができるようには思えないです。少なくとも私には。したがって、統合失調症の理念を刷新して改善しないことには、こうした停滞した状況を打破することはできないように思われます。

そして、そうした停滞した精神医学の状況を突破するためのヒントが、一番最初に取り上げた中井久夫の提唱する「養生」の概念にあると私は思います。

物理化学的衝撃でもない、薬漬けでもない、ショックの強い精神療法でもない、そういう患者を痛めつける以外の治療法としての「養生」の概念。もしもこれが果たされるのなら、それは精神医学自体が大きく進歩する機会になるようにも思います。

現状で、こうした養生の概念に近い治療法である程度のエビデンスレベルをも備えているものは「オープンダイアローグ」ではないかと思います。これは簡単に言うと、「開放的な対話」を行うことで疾患の治療を行う介入手法のことです。そこにおいては、――すべての対話がそうであるように――患者に徹底的に寄り添う「愛」が重要な役割を果たすとされています。

つまり、オープンダイアローグについてのような最新の科学的知見は、癒しの力を持つものとしての愛の重要性をかなり直接的に証明することに成功していると言えると思います。

おそらく愛なしの小手先のやり取りによって真の意味で人を「癒す」ことはできないのではないかと思います。大切なのは地道な実力の研鑽と真心から出た相手を本気で思いやる愛という尊い想いなのでしょう。

きっとそうした愛の先に、本当に正確で真理に適った、私たちに豊かな実りをもたらす「新しい統合失調症」の概念が芽吹くのではないかと思います。その時に精神医学は再生し、今のように人に強制してショックを与えたり、薬を無理矢理に飲ませたり、きつい精神療法を強要したり……そういうことはしなくなっていることでしょう。それこそ中井久夫が見通した理念としての「養生」のように穏やかで真に正統な「新しい精神医学」の誕生です。私は、あるいは多くの統合失調症患者たちはそうした幸せな瞬間を心待ちにしているのではないかと思います。みんなで心から笑いあえる、その時を。

すべての統合失調症の人達の人生が誰かに強いられる侵襲的なものではなく、彼ら自身が自分で歩み出せる自由に満ちた開放的な旅路でありますように。願わくば、すべての人たちが自らを癒すことのできる真の愛に出会えますように。祈ります。

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