日本にはなぜ即身仏が居るのか?
みなさん即身仏(そくしんぶつ)をご存知ですか?
即身仏とは、飢饉や病に苦しむ人々を救済するために、自ら土の中に入って仏となることを言います。
即身仏になるには、山に籠り、1000日から5000日かけて五穀(米・麦・豆・ヒエ・粟)を断ち、山草や木の実だけを食べて、ひたすら肉体の脂肪分を落とします。(体に余分な脂肪が残っていると、死後に肉体が腐ってしまうから)そして、死期が近づくと、自ら土の中の石室あるいは穴に籠り、鐘や鈴を鳴らして念仏を唱えます。毎日、決まった時間に弟子が鈴を鳴らすと、僧侶も鈴を鳴らして生存を伝えます。そうして、土中からの反応がなくなると、弟子たちは僧侶が成仏したことを知ります。掘り返すのは、死後3年3ヶ月を経てから。若干の手当てが施され、乾燥させてから、即身仏として安置されます。
日本国内に17体現存すると言われる即身仏のうち、8体が山形県、4体が新潟県、あとは京都、福島、岐阜、長野、茨城にそれぞれ1体ずつあります。
即身仏と似ていると思われるのがミイラなのですが、プロセスが決定的に違います。
ミイラは死後、遺体から内臓等を取り出し、防腐処理をして、人工的にミイラ化するのに対し、 即身仏は、本人自らが、極限まで体内から脂肪や水分を落とし、死後に身体が腐敗することを防ぎます。そうして、自らの死期が近いことを悟ると、土の中に入って断食死し、その後数年後に掘り出されたものを言います。
ちなみに、ミイラとはポルトガル語ではミルラーと言われ防腐剤のことだそうです。(へぇ〜)
インターネットを色々見ていると、分かりやすく即身仏のことを「ミイラ仏」と書いてるのを目にしますが、プロセスが決定的に違うので、即身仏を目の前に「ミイラ仏」と言ったりするのは、失礼にあたるそうです。
さて、なぜ急に即身仏のことを語り出したのかと言いますと、山形県酒田市に海向寺(かいこうじ)というお寺があり、そこに2体の即身仏が奉られています。そこにこの前お参りして、即身仏のことを考えてみたいと思ったからです。
何のために彼らは即身仏となる決意をしたのか?
なぜ山形県や新潟県に即身仏が特に多いのか?
から、日本に即身仏がいる理由を考えてみたいと思います。
ちなみに、「即身仏」と似た言葉で、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」というのもありますが、こちらは「生きた人間のまま悟りを開くこと」をいい、密教系仏教にある考え方のようです。
ちなみに(ちなみにが多い)、仏(ほとけ)とは、ヒンドゥー語でBuddha=「悟りを開いた人」の漢訳ですので、「即身仏」も「即身成仏」もいずれにせよ仏教における「悟りを開いた人」となり、仏教徒と考えてよいはず。ただ、即身仏の場合は、「悟りを開くため」にやったというよりも、どちらかと言うと、民衆を救うためにやっているようなので、もう少しこのあたりを掘り下げたいと思います。
仏教において、他者を助けることはどんな意味があるのか?
仏教には大きく二つの宗派に分かれます。一つは、保守派と言われる上座部じょうざぶ仏教。上座部仏教は、テーラワーダ仏教、南伝仏教とも呼ばれ、現在はスリランカを中心に、タイ、ミャンマーなど、東南アジアを中心に広まっています。上座部仏教では、出家し、厳しい修行を経験したもののみが悟りの境地にたどり着けると考えられています。もう一つの宗派は改革派の大乗だいじょう仏教です。実際には、俗世間を離れて修行が出来る人なんて、ほんの一握りの人しかいない。となると、我々のような一般ピーポーは永遠に悟りを開けず、苦しみ続けるしかないのか?という大衆の声に応えて「いや、そんなことはない!きっとそんなあなたでも救われる道があるはずだ!」と訴えるのが大乗仏教です。じゃあどうやったら救われるのか?大乗仏教が大切にするのは「利他」です。自分のことはさておき、他の人・他の生き物が幸せになれるように行動する姿勢。この利他を積み重ねることで、人は徐々に悟りに近づけると考えています。(お寺に行った時の「お賽銭」やお坊さんに渡す「お布施」も、この「利他」の修行と考えられています)より多くの人を救うことのできる大きな乗り物に例えたことから、こちらは大乗仏教と名乗り、向こう(上座部仏教)は僧侶が自分たちしか助かろうとしない「小さな乗り物」だと大乗仏教の信者たちが非難して、上座部仏教のことを小乗(しょうじょう)仏教と呼んだりしていましたが、今は差別的な言い方なので、この名称はあまり使われません。
翻って、日本。
日本に伝わって現在残っている宗派は、天台宗も、真言宗も、禅宗も、浄土宗も、浄土真宗も、ほとんどすべて大乗仏教です。
なので、日本における仏教界では、他者を救済しようとする利他の姿勢と、悟りを得るということは同じ方向性を向いていることになるのです。
そして、この即身仏を多く生んだ地域の地理的な条件を考えてみます。
山形県には、古くから山岳信仰の中心とされてきた、出羽三山(でわさんざん)という三つの山があります。下の赤い点。
(画像は「神社と古事記」から)
湯殿山(ゆどのさん)、羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)です。日本に仏教が伝わってくるずっと前から、この地域には、山を神聖なもの、恐れ敬うものとしての自然崇拝の思想がありました。そこに「大乗仏教」をベースとした仏教が伝来し、厳しい山での修行+利他の思想=「即身仏」を生むことになったのではないかと思います。
ちなみに、この三山を巡ることは、死と再生をたどる「生まれかわりの旅」と考えられており、現在でもバリバリの修験道の修行の地です。今年(2021年)はコロナの影響で中止のようですが、本来であれば修験道体験が出来るそうなので、興味ある方は是非。
↓男性向け
■参加資格:山駈等の厳しい荒行に耐え得る男子
■期間:8月下旬~9月上旬の7日間
■受付期間:5月初旬~5月末日まで(抽選制)
■経費:50,000円
↓女性向け
■参加資格 :山駈等の厳しい荒行に耐え得る女子
■期間:9月初旬の4日間
■申込期間:6月初旬~8月中旬(先着順、収容人数に達し次第締め切り)
■経費:40,000円
しかし、やっぱりいくら利他の行為が悟りへの道とは言え、自らの命を賭して、しかも数年もの長い間、ゆっくりと自分を死に追い込んでいくなんて、尋常じゃない覚悟と意思です。感覚的な言い方になるけど、東北の人って、あの長く厳しい冬の気候が人をそう作り上げるのか分からないですが、我慢強いというか、精神が練られているというか、なんというか、そんな人が多い気がするのです。きっと強靭な意思で究極的な利他・悟りの形を実践しようとする人が、この地域に多く居たってことが、東北に即身仏が多い理由の一つなのかも。
色々、奥が深いっす。
参考にしたサイト