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被災地を生きる、その先。


今日は徹夜で事務作業するか・・・と
思っていた矢先に

母とのなんでもないメールのやりとりで
確定申告の申告期限が延長されていたことを知った。

めっきりテレビも新聞も見ない生活だったので
自分の情報の疎さにあっけに取られつつ
「いい時間もらったな」と。
そう思ってせっかくなので、

後回しにしてた大事なことに向き合って
ここに書き記すことにした。

今日が311というタイミングなのも
このテーマに向き合う必然的なものを感じた。

何より昨年までの311とは
私の感覚は全く違うものになっているということに
今私自身の中ではっきりと気づいたところだ。



令和2年7月豪雨による水害で
私の住む大分県由布市の湯平(ゆのひら)地区が
大規模に被害を受けてから、もう早8ヶ月。

水害は数日だったけど
そこからの日々もまるで洪水のように
滝のように色々なことがドバーッと流れてきて
目まぐるしく変化して。

近年稀に見る情報量の多い時間だったと思う。


2020年7月7日
私はその時ちょうど熊本に出張に行っていて
人的被害は受けなかったが

それから10日ほど
「とにかくひどい状況で
道が通れないからまだ帰るのはやめたほうがいい」

という集落の隣人からの連絡で自宅には帰宅せず、
たびたび報道で見聴きする被災地域のことに胸を痛めながらも、
娘と友人宅に泊まり歩いたりキャンプしたりしてその空白を過ごした。

あの豪雨が幻のように、夏の気持ち良い日が続いていた。

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実はあの311の時も
私は、タイの離島で日常から離れ
、この世の楽園のような場所で
友人達とバケーションしていて
そこで目にした東北大震災の報道が
まるで映画を見てるようで
いつまでも現実感を感じられずにいたのをよく覚えている。

その感覚はいつまでも続いていて
帰国後もずっと私だけが当事者じゃないような疎外感すら感じていた。

不思議な運命に運ばれて
今回も、
私は出張先の熊本で友人たちが作っている
海を見下ろすエコビレッジの中の、
それは素敵なドームハウスに泊まらせてもらい、
またしても非日常的で
楽園にいるような時間の中にいた。
そのため自分の住んでる場所が被災したけれど
しばらくは現実感のないままだったように思う。

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家に帰る道が閉ざされ、急に白紙になった予定たち。

なんとなく娘や友人たちと楽しい時間を過ごすことで

逃避していたのかもしれない。
だけど、いよいよ仕事や家やこれからの暮らしのことも

心配になってきて
ちょうど10日目の7月17日に、
娘と「とにかく一度帰ろう」と決心し
心配する両親も一緒に自宅を確認しに行くことを決めた。

いつもの家の帰り道の前に
「この先全面通行止め」の看板が荒々しく立ち塞がっていた。
代理人から受け取った住民向けの「通行許可証」を
ダッシュボードに提示してそのロープを越えていく。

その一つ一つがまさに被災地の様相・・・。



今もその時のことを思い出すと
手に力が入らなくなり
鼓動が高まる。


現地は私の想像を遥かに超えた状況だった。
私たちが愛した、あの苔むした渓流の姿はなく、
いつもは半分だけ顔を出して
美しく鎮座していた3〜4m級の巨石達が
ゴロゴロとあちこちに剥き出しになり
まるでゴジラでも通ったんじゃないかと思うほどに
道や木々、道路標識はなぎ倒されていた。
見慣れた懐かしい風景など見る影がない
荒涼とした世界が広がっていた。


                                                              
私たちが住んでいた家は
今回の水害で濁流となった
「花合野川」(かごのがわ)沿いの一軒家で
大きなお地蔵様と鎮守の杜が佇む
その紅葉と渓流の美しさに一目惚れして移り住んだ家だった。

しかし、その場所が
湯平地区でも今回最大規模に崩落した場所となり
新聞にも「湯平地区の被害」の象徴的な写真として

報道されるほど、それは悲惨な状況だった。


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                (2020年7月8日当日の朝刊より)


まだ降り止まない雨の中、
この写真を熊本で見たときに
正直もう家が流されても覚悟しなければと思った。

それはもちろんショックでもあったが
でも、この衝撃的な知らせのおかげで

私の中で一つ大きな変革があった。



「自分の家が流されるかもしれない」
という状況を突きつけられたとき私は意外にも冷静に、
まず自分と娘と愛車、そして仕事用のPCまでもが
あることを確認して

「私の大事なものは全部ここにあるから大丈夫」

と全てを受け入れる心になれたのだ。

そう思うのに時間もかからなかったし
難しい答えでもなかったが
その後の軽やかさはそれ以前とは比較にならないものがあった。
モノへの執着。その究極の手放しが完了した瞬間だったのだ。

だから家に帰るまでは、期待せず「無事だったらラッキーだな。」
そのくらいの気持ちでいた。
家には大事なものもたくさんあったはずなのに
あってもなくてもどっちでもいいものに変わっていた。


実際に現場を見ると航空写真よりも衝撃的で、家の土地の周囲は
巨人が棒倒し遊びをしたかのように周りは綺麗にえぐられて
家がギリギリのところで砦のように建っていた。

が、奇跡的にも家や家財に被害は一切なかった。



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               (水害後の様子:2020年7月17日)

皆に、「守られたね」と何度も言われた。
確かにこの惨状で無傷とあれば

家の隣に残された杜と
お地蔵様に守られたなと感じられて
あらためて娘と手を合わせた。



しかし何も失わなったかと言えば違う

私はこの時に初めて愛する景色を失うという体験をした。
それはとても言いようのない深い悲しみだった。
私にとっては「環境」は所有物以上に大きな存在だったのだ。

音や匂い、、
四季折々魅せてくれる彩りで
私たちの暮らしを幸せに包んでくれた
あの美しい環境をすっかり失ったのだ。

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             (家の真裏の川の写真: 2019年7月頃)


それはもう会えない人を思って涙する気持ちと同じだった。

それと同時に

311 あの日どれほどの人が愛する景色を失ったのだろう・・
近年続く水害、地震、自然災害でどれほどの人が・・・

と、同じような境遇の人たちに心を寄せたときに

今までは遠かったその感覚の先に
何か同じ共感を見出せた気がした。


311からずっと私がわかりたくとも
わかりえなかったことが

やっと自分の腑に落ちて繋がった瞬間でもあった。

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日々世界中で様々な自然災害が報道される。

いつも私は、そこにかける言葉が浮かばなかった。
家を失う、故郷を失う、それがどれほどの感情なのか
体験したことのない私には簡単に「大丈夫」なんて言えない。
その人達の気持ちを察することなど到底できないのだ。


目の前に被災した方がいても、

どんな言葉も軽薄になってしまいそうで

何かしたいとは思いつつも、
いつもどうしていいかわからずにいた。



だけど私は今
失った今、
その気持ちが深くわかるし
その上で
心からの言葉で

「でも生きてるから大丈夫」

と言える。

それが私の強さになった。
そして迷いが一つ消えた。



ひとつ、ふたつ、そして同時多発的に
大きな波が起こり始めたこの世界で

私たちの思ってもない想像以上のことが起こっていく。
きっとこれからも。

でもその裏には、
その規模じゃないと、その一線を越えないとわかり得なかった

深くて大きな気づきや学び、これからの世界を生きる術が

散りばめられていて、それが絶対にその人を強くして、
背中を押してくれるんだと思ってやまない。




私はこの一連のことによって
全ての事象には
良いことも悪いこともないんだと
またあらためて痛感した。

何事も良いことと悪いことと表裏一体で合わさっている。

決めてるのは自分自身であり、
何をどう感じるか全部自分次第、委ねられている。
見てる人の見てる視点によって
この世界の見え方は全く正反対になり得る。
良いこと悪いことという概念自体がもう古いのかもしれない。
「かわいそう」なこともそもそも存在しないのかもしれない。。と。

それから破壊のように見えていたこの水害も
自然からしたら破壊でもなくむしろ創造なのかもしれない。
もしくは我々のくしゃみのような
自然な生理現象の一つ程度なのだろう。

水害後に浄化された川の水質や、
新しく開かれ光明を得た美しい滝を見つめながら

そんなことをよく感じる時間だった。

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それからも悲しみと喜びと
言葉にできないほどの体感が
この8ヶ月の中に詰め込まれていた。

私は、お店を長期休業にして
やりたかったことをたくさん進めることができた。
小学校に入る前の愛娘と、
時間を気にせずに思いっきり遊んだり

大切な思い出を作ることもできた。
この水害を起因とした、
今ではかけがえのない人との出会いもあった。



また、水害・コロナと
湯平での事業に関しては
国や県や市や商工会の皆さんが
本当に様々な支援を
打ち出してくれたおかげで
事業継続のために新しい機材を揃えたり
お店の改装を進めることができた。
本当に日本は優しい国だと実感できた時間だった。

現状の問題としてはとにかく住む場所だ。
土地は流出しているが、家や家財は無事だったため
住家に関しての災害支援などは一切受けられなかった。
全て自力で暮らしの拠点を動かすことになった。
近所で唯一見つけた
家の雨漏り修繕が思いのほか大変だったり
まだこれからやっとそこの内装の解体が終わって

リフォームが始まるところで、
梅雨が少しずつ迫ってきて正直焦ってはいる。



けど
「生きてるから大丈夫」ということが深く響いている今
これからもどんなことが起ころうと
なんとかやっていけるだろうという謎の安心感もある。
ひとり親で山暮らし。マインドだけは本当に強くなったもんだ。。



今年で移住7年目。

水害以前からやってきたプロジェクトで
私は今、
湯平温泉という山奥の過疎の秘湯で
3軒の物件を手がけて空間づくりを進めている。
人材とアイデアを必要としている
この地域の
磨き手を絶やさないためにも
移住希望者がお試し気分でもスッと入れる器(うつわ)、

「家・仕事場・制作場」を未来のために創造していたいと思ったからだ。
それらは時空間を見つめて作品を作ってきた私たち
の
初めての常設作品でもある。
この制作は完成することなく続くだろう。

それに重ねて、湯平温泉のアートプロジェクトも始まっている。

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環境・空間がいかに人に作用するのか?
そして一人の人間がどう環境(社会)に影響できるのか?


そんな自分自身からの問いかけのような活動だったので
規模よりもクオリティや、
その瞬間の結実を重要視したプロジェクトだったが
行政や観光協会と協働していた
「
湯平の地域活性化」という側面で見ると

もともと山奥の秘湯で交通も不便であった上に
今回の水害でそれがさらなる苦境となった面も否定できない。


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             (水害で流された湯平温泉の共同浴場)

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客観的にみても観光地というのは
一度被災すると、とても復興が大変だと思う。
それは想像にあまるが、
この
水害から日本中で湯平温泉の被災が報道され
今もたくさんの方が見守り応援してくれている。
それは、私たちにとって
とてもかけがえのない希望だと思う。



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ちょうど5年前の熊本地震で崩落した
「阿蘇大橋」が
先日3月7日に「新阿蘇大橋」として開通した。
あの観光で賑わう阿蘇を結ぶ主要な道路で

国や県が全力で取り組んでも5年の歳月がかかったのだ。
その努力の日々とそれを見守ってきた地元の方々を思うと
本当に言葉にならないものが込み上げてくる。




由布市でも湯平地区はこれから3年程かけて
大規模にインフラ、河川、温泉の復旧工事が

行われることが発表された。
ソフト面はもっとゆっくり時間をかけて、
全体的に5年はかかると覚悟している。

だけど私はやっぱり
この湯平が大好きで、いつでもただいまと言いたい、
私と娘にとってかけがえのない故郷のひとつだ。
これからも特別な場所であり続ける。
それは変わることがない。
その表明と覚悟として、ここで終わらない「不動産」
という
作品を手がけているのである。


むしろ、この自然災害を通じて、
私たちがどう感じて
どう新しく創っていくのか。
何をあらためていけるのか。

それを娘や子供達に示していきたいし、
何よりこの災害が同時多発する時代に生まれ育っている娘達が
この状況をリアルに体感しながら
その先にどんな未来を描くのか。
私はそれを見たい。

それこそが、私たちには描けない
「希望の設計図」
のような気がしてならない。


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年齢的にもいよいよ40代が迫ってきたのもあるのか
命を見送ることが多くなってきた。
瞬いていく命達に背筋を正される日々。

311から10年
あの日亡くなったたくさんの命達に
心からご冥福を祈ります。

そして
やっぱりどう考えても
亡くなった人たちへの
最大の供養は
私たちが幸せに生きることだと強く思う。
だからどうかあなたが幸せになってください。


湯平もこれからの変化が楽しみだし

引き続きがんばりどき。


あの美しい花合野川の渓流、、

いや、「あの」ではなく「新たに」

この雄大な自然と時間によって
美しい景色が
創造されていくのをここで見ていたい。


そしてそこに蛍たちが戻ってくるのを
娘とおかえりーって迎える日を
穏やかに思い描いていたいと思います。


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                                廃テンション | photo  by MAW 2020





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