映画「東京クルド」を観て~”おもてなし”の仮面の裏側~
1.5年以上の取材を経て描かれるクルド人の若者の「青春」と「日常」
故郷での迫害を逃れ、小学生のころに日本へやってきた オザン(18歳)とラマザン(19歳)。二人は難民申請を続けるトルコ国籍のクルド人。
入管の収容を一旦解除される「仮放免許可書」を持つものの、 許されているのは「ただ、いること」。立場は非正規滞在者で、住民票もなく、 自由に移動することも、働くこともできない。
また社会の無理解によって教育の機会からも遠ざけられている。
いつ収容されるか分からないという不安を常に感じながら、 それでも夢を抱き、将来を思い描く。
この映画が説得力を持っているのは、主人公である2人のクルド人の若者が話す日本語があまりにもネイティブだからなのだ。
幼少期に日本に来て、日本の小学校、中学校に通って身に着けた日本語は、彼らの両親の話す日本語と違い、格段に流暢であり、それはもう外国人の話す日本語のレベルではない。
だから、そこがかえって、難民として認定されず、日本で生きている彼らの現実の残酷さを、観たものに直接訴えてくるのだった。
彼らの言葉が、訴えてくるものが、わたしの心に突き刺さるのだ。
2.「わたしたちにはどうしようもない」という責任回避の論理
仮放免中は、就労も許されていない、解体の仕事で働いているというオザンに、「働いてはダメ。」という入管職員。「じゃあ、どうすればいいの。どうやって生活すればいいの」と問い詰めるオザンに、「わたしたちにはどうしようもない。それが法律だから」と言い放つ職員。
このシーンは、救いを求め懸命に生きようとするクルド人に対して、この差別的な圧力をかけているのは、対面している「私」ではない、自分の責任ではないのだとする入管職員の言い訳なのだが、それがかえって、差別的なのは日本という国であり、それを構成している日本人なのだということを的確に表している。
入管職員だって、「わたしたちにはどうしようもない」というじくじたる思いや無力さを感じながら仕事をしていると思う。
だが、わたしは、このとき、「爪に棘が入ればそれは痛いだろう。しかし、それを、心臓をえぐられている人の前で言うな。」というドラマのセリフを思い出してしまった。
3.「他の国に行ってよ」というどこかよそで幸せになってという排除の論理
「ビザを出せばいいじゃん」という声に、ある入管職員が、“帰ればいいんだよ。帰れないなら、他の国行ってよ”と言い放つシーン。
このシーンは、自分たちの目の前でなく、他に行ってくれれば、見なくて済むからという排除の論理があるのだが、それこそが差別なのであるという真実を証明してみせてくれる。
そして、同時に、どこかよそで幸せになってくれればいいのだという無責任さは、まるで日本という国の論理が、日本人の個人の内面にまで沁みとおってくるようで恐ろしくなるのだ。
日本人の「おもてなし」の洗練された外面と違って、いざとなると無力感と無責任感が表出するという、わたしたち日本人が見たくない、日本人の残酷な一面がここにあった。
4.日本は難民問題にどう向き合い、移民を受け入れていくのか
日本は、彼らのようなクルド人を難民として認定しないで、いったい誰を難民と認定するというのだろうか。
国際社会でメンツを保つべく難民条約に署名しながらも、しかし、その実態は鎖国意識丸出しの日本の難民・移民政策。
入管法の解釈とその運用は、ガラパゴス化しているから、今、なぜ入管でこんなことが起きているのか、自国民であるわたしでさえ、よくわからない。
緊急事態宣言中に開催される東京オリンピックで、難民選手団を受け入れながら、自らの国では、難民を受け入れようとしない、なんて、こんなアイロニーがあるだろうか。
今まで、日本にいるクルド人に、関心を持ったことがなく、なんの行動もしたことがないわたしでさえ、このままではいけないと行動にかりたてられる映画であった。
多くの人にみてもらいたいドキュメンタリーである。
かれらの希望を奪っているのは誰か? 救えるのは誰か?
問われているのは、スクリーンを見つめる私たちだ。