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ヒロシマのまちを歩く

仕事で広島に行ったときに、市内をあちこち歩いてみました。


アレフレド・ジャー展

第11回ヒロシマ賞を受賞したアルフレド・ジャー展を観に、広島市現代美術館へ。

われらの狂気を生き延びる道を教えよ
1995-2023  ネオン
大江健三郎(1935-2023)へ捧ぐ
今回の展覧会のために特別にデザインされた日本語版
われらの狂気を生き延びる道を教えよ
1995-2023  ネオン
大江健三郎(1935-2023)へ捧ぐ
今回の展覧会のために特別にデザインされた英語版

今年3月に亡くなった大江健三郎氏へのオマージュとして、英語版と日本語版の両方を展示することになったそうです。


生ましめんかな
2023  121個のニキシー管
栗原貞子(1913-2005)へ捧ぐ

「生ましめんかな」は、広島で被爆し、生涯を通じて反核を訴えた詩人、栗原貞子の詩の題名です。(解説より)

白と黒、光と暗がり、静謐な空間に身を浸し、ゆっくり鑑賞することができました。
アレフレド・ジャー展は、2023年10月15日まで。


コレクション展2023-Ⅰ

リニューアルオープン後の記念特別展も終わり、再開されたコレクション展。日常の広島市現代美術館という感じでしょうか。

写真はありませんが、加藤立氏の『I am a museum』の映像作品に、見入ってしまいました。草間彌生氏の『The Man』は、表現する言葉がみつかりません。

現代美術は、わかりづらさが先に立ち距離をおきがちですが、気になる作品があったら、ゆっくり観てみようくらいの気持ちでいればいいのかなと思いました。


袋町小学校平和資料館

袋町小学校
(爆心地から約460m)


学童疎開をしないで登校していた児童と教職員約160人が朝礼直後に被爆し、ほとんどが犠牲に。戦後は校舎として使用されていました。1998年、老朽化により新校舎建設が計画されましたが、保存運動が起こり、一部の校舎が平和資料館として保存され、利用されることになったそうです。

被爆後は救護所となったことから、壁面には、消息を知らせる多くの伝言が残されました。その伝言が、建て替えの際見つかり、展示されています。

どれだけの人々が、肉親を訪ねあちこちの救護所を探し回ったのでしょうか。その気持ちを想像しながら、伝言の前に立ちます。


被爆建物・被爆遺構

広島文理科大学
(爆心地から約1,420m)
広島赤十字病院
(爆心地から約1,500m)
広島陸軍被服支廠
(爆心地から 約2,670m)


街や公園に、巨大な建物が残されていたり、碑や被爆遺構があったり…
なかでもその大きさに驚いたのが、軍都廣島を支えた広島陸軍被服支廠。戦争を支える兵站を担う施設でした。ここでは、軍服、軍靴などが生産され、保管されていました。
彼爆直後は臨時救護所となり、避難してきた多くの人々が次々と力尽きていったそうです。


まちを歩くこと

比治山南側にある陸軍墓地より、広島湾を臨む。
広島陸軍被服支廠もよく見えた。


歩くことが好きなので、時間と体力が許す限り、歩くようにしています。
広島の、ヒロシマの、まちを歩くことは、特別な意味があると思いました。


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