推し活と民主主義? 「感性に基づく能動的な活動」から始まるソーシャルチェンジ
ずっと「推し」という感情が分からなかった。けれど、大きな可能性を感じるようになってきた。
合理性ではなく、感性に基づいて。受動的な消費ではなく、能動的な貢献や創作を。
そんな活動が「推し活」の定義だとするならば、推しのエネルギーには社会を変える可能性があるかもしれない。
そして、「誰かにやれと言われたわけでもない、自分の感情に純粋な活動」に打ち込むことは、人生に豊かさをもたらすかもしれない。
何より、「推し活」は自由だ。勝手にやっているんだから、効率や合理性を問われる筋合いもない。自分たちが満足していて、周りに迷惑がかからないならば、自由にやり続けていい。
理性と知性で、世界は良い方へ変えていける。そう信じていた自分が見えていなかった、世界のもう半分(あるいは大部分)について考えてみたい。
イベントで出会った、ボトムアップの考え方
先日、下北沢の本屋B&Bで開かれたイベントに参加した。
「ウェルビーイングな民主主義を実現するには? ──”わたしたち”の醸成について」渡邊淳司×ドミニク・チェン×川地真史×石塚理華
イベントでは、登壇者たちの著書『ウェルビーイングのつくりかた』『クリエイティブデモクラシー』に加えて、『実験の民主主義』が紹介された。
3冊に通底するテーマを言葉にするならば、「ボトムアップの民主主義」だと思う。
毎日のくらしから気付きを得て、ローカルな仲間たちと小さく何かを始め、段々と大きく展開していく。社会にとって良いことと、自分にとって良いことが、矛盾なくリンクしていく。かつ、それらが本当に素人活動で留まってしまうことのないよう、新しいデザインの方法論やテクノロジーが取り入れられ始めている。
「推し活」は生き甲斐をくれるらしい
好きな誰か・何かができて、もっと良くなるように、もっと大きくなるように、と自分のできる範囲の貢献をすることに喜びを感じる。視聴回数を伸ばす、SNSでシェアする、といったことでさえ貢献となるので、誰しもに参加の機会が開かれている。
人は、自分が何かを得る欲求だけでなく、誰かに何かを与え、貢献したいという欲求もある生き物なんだと思う。自分が何かの役に立てているという実感は、自分の存在価値を自分で感じられる機会にもなり、セルフケアになっている。
感性に基づく能動的な活動、から社会が変わるかも
「推し活」の定義を、感性に基づく能動的な活動とするならば、そこから生まれるボトムアップのエネルギーには社会を変える可能性がある。
“課題はあるけど、儲からない”、いわゆる市場原理の外にある社会課題はビジネスではなかなか解くことができない。非営利組織の活動や、国の政策によって解決していきたいけれど、それによって損するステークホルダーも居たりして、合意形成にもとっても時間がかかる。
こうした、“合理性の限界”を飛び越えて、自分の好き・共感によって動き始めることが、大きな変化への最初のブレイクスルーになるかもしれない。
BTSと、ARMYと呼ばれるファンたちが社会問題にも積極的に動いてきたのは有名な話だ。
そう考えていくと、自分が誰に頼まれたわけでもなく起業家やってブログ書いてるのも「推し活」と似たようなものだと気付く。合理性よりも感性で始めた能動的な活動で、打ち込むことで自分の人生が豊かになっている。
「自分の住んでいる町の銭湯をリノベーションして、地域のみんなが交われるコミュニティスペースを作るプロジェクトがあるんだけれど、どう?」
なんて誘われたら、わくわくする人は多いんじゃないだろうか。
自分が推している何かがあって、そこに貢献する活動ができる。
#地域推し なら街づくりを。 #子供推し なら学習支援を。 #自然推し なら森林保護活動を。 #海推し ならビーチクリーン活動を。
こんな身近なことからでも民主主義なんだぜ、と言ってもらえるなら、「選挙に行っても社会が変わる気がしない」という諦めや距離感が薄れて、何かができそうな気がしてくる。
推せる社会ビジョンがほしいよね
ひとつひとつの問題への具体策も大事だけれど、いま僕らが必要としているのは「推せる社会ビジョン」なんじゃないか。
経済問題だって、コロナ対策だって、社会保障の問題だって、理にかなった政策なら支持するよ。でも、その先に推せる未来像がないんじゃ、何をされたって強くは支持できないぜ。
こんな感覚が、いまの日本にあるのかも。
そんな「推せる社会ビジョン」は誰が考えてくれるのだろうか。政治の信頼度が低い今の日本では、政治トップにそこを期待するのはちょっと難しそうだ。
であるならば、僕らひとりひとりが作るしかないのかもしれない。
誰かが素晴らしいビジョンを掲げてくれるのを期待し、それ以外には文句を言う、を繰り返しても永遠に辿り着けない。僕たちは、自分が推せる社会像を、自分で考えてみることができる。
推しは創り、育てるもの
とはいえ共感と盲目的な熱狂で行き着くポピュリズムにも気をつけたい。旨すぎるストーリーには嘘がある。
トップダウンで示すBig Storyに乗っかるのではなく、小さく多様なSmall Storiesで駆動していく時代が来ている。これからは、ちょっとずつ違う「推しのビジョン」を持って、ちょっとずつ違う「推す理由」があっていい。
それでも「完全に交じりあわない個人主義」にも陥らずに、似た推しを持つ仲間たちで広く連帯していけるのがベストバランスだと思う。
僕たちも、自分が推せることから、社会をちょっと変え始めてみませんか。