労働映画「フェラーリ」ネタバレ 考察
猫と社畜は死体を見せない。
猫は死期を悟ると姿を消す。
理由は 弱った動物は外敵から身を隠す為。
数年前、還暦前の男性が過労で自殺した。
もし彼が死体を残さず死ねるならそうしただろう。
理由は 遺書で自分の死にすら「迷惑かけしまって」と謝っていたから。
その遺書には家族だけでなく 自分を殺した会社にまで 職務放棄を詫びる内容があった。
そこまで尽くしても会社は労災と認めない。
馬車馬、社畜、社会の歯車。
労働者を人間以外に例える言葉は多い。交換可能だったり逆らえない事の皮肉で、経営者はそれを求める。
死んだ馬車馬に墓は立てない。壊れた歯車は捨て、新しい社畜に換える。
それが現代の経営。
私が死んでも代わりはいるもの。
大体の人間に代わりはいる。労働者は特に。
この映画ではドライバーは死者と見なされない。
冒頭に一人、ミッレミリア中にも一人死んでるのに死体は映されない。
もし 映画を通して誰一人も出てこないなら、映倫規定、ヘイズコードの為だって思える。でも事故の被害者は凄惨に映される。
レーサーが死んでもエンツォは「女の前でいいカッコするからだ」なんて言ったりしてたのに、あの事故には狼狽する。
彼が感情を露にするのは長男の墓前と事故の時だ。息子は分かる。でもあとは他人だ。何で線引きしてるんだ?
要はフェラーリ社の人間かどうかだ。フェラーリ社の人間は歯車扱い。
エンツォは冷酷と思われることについて愛人に語った。
「仕事の為に心に壁を作った」
その仕事と言うのはレースをする事。そのために車を売る。
レースの為の車のエンジンは最速でなければならない。
「より良いモノは何より美しい」からだ。
愛人との息子ピエロに自分はエンジニアだと言う。
現実のエンツォも「l'Ingegnere(イタリア語でエンジニア)」と呼ばれたがった。だけど実際は「コメンダトーレ」と呼ばれる。
この呼び名は国から授与された勲章に由来する。意味は指揮官。
要は社長とか大将って意味に置き換えた愛称だ。
ここでジレンマが生じる。※1
エンツォはエンジニア、つまり労働者としていい仕事をしたいと思っている。そのための会社を設立した。そうすると労働者を酷使することになる。
この映画の監督、マイケル・マンの映画には搾取される労働者とそのジレンマが多く登場する。
労働に誇りと価値はあるのか?
映画「HEAT」のインタビューでマイケルは
「私の一番印象深いシーンは黒人夫婦のやり取りだ」と言った。
そのシーンとは保護観察中の黒人が出所後、レストランで働こうとするがその時店長に言われる。
「給料はピンハネする。逆らったら保護観察官にお前が盗みを働いたとチクる。わかるよな?」と脅され事実上の奴隷となる。
「あなたは私の誇りよ」と慰める妻に、夫は
「こんな俺に何の誇りがあるんだ」と泣く。
彼は奴隷から逃れるようと主人公に誘われ犯罪の片棒を担ぐことになる。
他の映画「コラテラル」でタクシードライバーのマックスは上司にいびられてる。叶わないリムジンサービスを夢見ながら日々を耐える。
それを打ち破るのが暗殺者のヴィンセントだ。
彼はマックスの上司を脅して黙らせる。
その上、本気で夢を叶えたいのなら何故、車の頭金だけ払って踏み倒さないんだ?と言う。
これ以外にもパブリックエネミーやシーフでも似たような話が出てくる。
これらの共通点は
真面目に働くと搾取される、それから逃れようとすると犯罪になる事だ。
マイケルは「シーフ」のインタビューで
「主人公を突き動かすの労働価値説だ」と答えた。
労働価値説は商品の価値は労働量に等しい。って考え方だ。
この考え方ならエンツォも大満足だ。情熱をかけた分価値が上がるんだから。
が、現実はそうではない。現代では「限界効用価値説」が採用されてる。
これは商品の価値は客の満足度である。って考え。
同じものなら価格が低い方が満足度が高いので価格は安くなる。そうすると労働者の賃金を低くする事になる。つまり搾取が起こる。
エンツォが心に壁を作ったのもうなづける。
いいものを作るための会社がいいものを作る人を殺すんだから。
このどうしようもなさがこのこの映画には多い。
どうしようもない世界。そこで苦しむ人々が登場する。
オペラ「椿姫」
この映画で何度も歌われるオペラ。内容はパリに住む貴族の青年と高級娼婦の悲恋だ。
結婚したかったけど親に反対され、何とか結婚にこぎつけようとすると女の方が結核になり死ぬ。これがあらすじだ。
歌われるシーンは二人が再会するシーンだ。そこで男は女が結核にかかったと知る。要は余命宣告されたワケだ。だから二人はパリから離れて二人穏やかに暮らそう。そうすればきっとよくなるからと夢を歌う。
勿論二人ともそんなことはできないと知っている。
どうしようもないから夢を歌うしかない。
オペラ観覧にはエンツォと愛人が行き、母と妻はいかない。
母と妻は行ってないのにあの歌と共に昔を思い出す。死んでしまった子供との日々。母は戦争に最愛の長男を奪われた。妻は夫と息子との幸せな日々を会社に奪われたと思っている。
妻のラウラはエンツォを恨んでいると同時に愛してもいる。
長男を殺した社長として恨んでいるが夫としては愛してる。
どうしようもないジレンマをラウラは隠そうとしない。それが彼女の行動が異様な理由だ。
彼女はエンツォに言う。
「野望や策略に蝕まれてすり減ってしまった」
これは経営者としてのエンツォの事を言っている。
エンジニアのエンツォではない。
でもどっちにしろフェラーリ社が必要だから彼女はエンツォの窮地を救う。
その交換条件がピエロの処遇。
このピエロはジレンマの象徴だ。
我が子を生贄できるか?
結論から言うと、ピエロをフェラーリ性にする事はエンツォにとって人でなくなるという意味だ。
現実の話はおいといてこの映画ではそうだ。
愛する息子を搾取の輪に組み込む歯車にする。
これもジレンマだ。
ラウラにとってもそうだ。
エンツォには会社が必要だ。そのために後継者がいる。
でも自分の息子は死んでしまった。歯車なのに直す事もできない。
かといってピエロは自分の子ではない。
これもジレンマ。
その折衷案が自分の死後まで認めない事だ。
エンツォは結局、フェラーリ性にさせる。
そう決めた後ピエロをアルフレドの墓に連れていく。
この行為を僕は一言で言い表せない。※2
あまりに複雑だから。
その複雑さが今も世界にジレンマを産み、人は苦しむ。
備忘録
※1
冷酷の様に見えて死んだレーサーの遺族に金を送ったりと労働者の遺族にできる範囲でやっている。これはラウラのいう温かさのあるエンツォの側面。
※2
強いていうなら愛する家族の紹介と新しい歯車の交換作業。