初期西田哲学に於ける「無」の意義の変遷

 西田幾多郎の長編論文の第一作目『善の研究』と第二作目『自覚に於ける直観と反省』(以下、『自覚に於ける〜』)では「無」の意義が大きく異なっている。
 『善の研究』によると、我々の意識現象こそが唯一の実在である。そして、この書に於いて、「無」とは、あくまで意識の上の事実であり、意識としてある。

「普通の意味において物がないといっても、主客の別を打破したる直覚の上より見れば、やはり無の意識が実在しているのである。無というのを単に語でなくこれに何か具体的の意味を与えて見ると、一方では或性質の欠乏ということであるが、一方には何らかの積極的性質をもっている(たとえば心理学からいえば黒色も一種の感覚である)。それで物体界にて無より有を生ずると思われることも、意識の事実として見れば無は真の無でなく、意識発展の或一契機であると見ることができる。さらば意識においては如何、無より有を生ずることができるか。」((1)第二編第二章p71)

『自覚に於ける〜』ではどうだろうか。まず、意識内容とは意志によって実在的となり((2)「三十九」p276)、意志は意識の根本的統一である((2)「三十九」p265(注1))。そして、その意志の発生源は「無」である。

「創造的無より来つて創造的無に入り行く意志は実在であり、意識である。」((2)「三十九」p275)

しかし、「意志は(中略)、意識である」とあるが、形式論理的に意志が意識に対して十分条件であり必要条件でないということでなく、上述したように、意志は意識より根本的である。また、類似の記述として、以下の箇所もある。

「意志は創造的無から来つて創造的無に還り去るとか、神の意志に依って世界が生ずるとか云ふことは、我々の因果律の考に対して深い矛盾と感ぜられるであらう。併し無より有を生ずるといふこと程、我々に直接にして疑ふべからざる事実はない、我々の此現実に於て絶えず無より有を生じつつあるのである。」((2)「四十」p281)

まとめると、『自覚に於ける〜』では、「無」は意識の根本たる「意志」の根源であるので、『善の研究』で言われていた意識の上の事実としての「無」は真の無ではなくなったということだ。
 そして、更に考察すると、「無」が意志より根本的となったことで、西田は『善の研究』で展開した「必然的自由意志論」という自家撞着から脱することができたと言えまいか。無が意志の根源であるということは、経験内容として与えられたものによって一方的に意志が規定されはしないということであり、これは『自覚に於ける〜』での「必然のみならず偶然を認める絶対自由意志論」と調和している。この自由意志論の必然と偶然に関しては拙稿で掘り下げてある(3)。

(注1)この箇所で西田は、「意志は意識の根本的統一であるとすれば」と仮定的に書いているが、後の文脈からして、この事は仮定に終わらず実質的には肯定されている。



参考文献
(1)「善の研究」西田幾多郎著、岩波書店(岩波文庫、青124-1)、1979年改版

(2)「西田幾多郎全集」第二巻(全十九巻)『自覚に於ける直観と反省』、岩波書店、1950

(3)https://note.com/mattari_philolo2/n/n6da0d902b9a4 2023

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