経歴と逸話から考える植芝盛平:36歳までは武術が趣味のおっさんでは?
合気道を産みだした創始者、植芝盛平には伝説的なエピソードがあったりして、いつから本当に凄い実力者だったのか、いまいちよくわからない。
若い頃はとんでもない怪力で筋骨隆々だったという話もあるし、軍隊で「兵隊の神様」と呼ばれてたとか、3人がかりで抜けなかった樹木を1人で引っこ抜いたとか言われている。
(参考:武の真人、武産合気)
そんな話から、盛平がもともと強かったという風に考えると、じゃあ強くもなんともない我々が合気道をやる意味ってなんなの?ってことになってしまう。
というわけで、実は趣味で開祖の年表をつくったりしたので、そのあたりを眺めつつ盛平は一体いつからその実力が確かなものになったのかを独断と偏見で考えてみた。
(おおよその参考資料は上記リンクを参照)
大本以前の人生
もちろん色んな考えがあるだろうけれど個人的には盛平の人生が大きく変わったのは「大本教」と呼ばれている宗教団体に入った時だと思っている。
とりあえずその理由から書いていこう。
盛平の武術のベースとして一番よく知られているのが「大東流合気柔術」だ。
けれど、それを学ぶ以前も記録によれば「起倒流柔術」「神陰流剣術」「天神真楊流」「柳生心眼流柔術」「柔道」「銃剣」なんかを経験しているらしい。
「各地を遍歴して大抵何流彼流を一ヶ月ないしは二ヵ月習いました。長いので三ヶ月と習わなかった」と盛平本人も『武産合気』で、色んな武術を短期間稽古してきたことを語っている。
武術オタクでは?
この辺の経歴を見ているとわかるのは、この頃の植芝盛平という人は、色んな武術をかじっている武術オタクだったということだ。
何かひとつの流派をひたすら打ち込むというわけではなくて、一番長くやったであろう大東流もかなり長めに見積もってもトータル1年も惣角からは学んでいないだろう。
確かにゴツくて強かっただろうけれど、何らかの武術の実力者という感じではなかったように思われる。
どれくらいの実力だったのか?
やっぱり武道武術の実力者であれば、先生とか周囲の人とか、それなりに評価をされるものだろう。
そういう意味では大本教に入るまで、開祖はそれほど評価されていない。
柳生心眼流に関しては免許を貰っているけれど、あとはせいぜい惣角の弟子として指導の手伝いをしたくらいだ。
後に開祖の直弟子としてただひとり十段を与えられた藤平光一は著書で盛平の友人が語っていたエピソードを紹介している。
それによると昔からの友人で柔道をやっていた鈴木新吾は、大東流を学んで意気揚々と戻ってきた盛平をあっさり投げ飛ばしてしまい、盛平はそのままショックで一週間ほど寝込んだという。
ところが大本教という宗教団体に入った後は、歯が立たないほど強くなっており、今度は鈴木新吾が弟子入した。
確かに後の資料で鈴木新吾は弟子として紹介されている。
宗教で人は強くなるのか?
というわけで大本教に入る以前、36歳くらいまでの盛平は、一般人よりは間違いなく強かっただろうけれど、個人的な憶測によればまだ世間を驚かせるほどの実力者ではなかったように思う。
そもそも自分より身長も低くて年齢も20ほど上の武田惣角に感銘を受けて即座に弟子入するということは、それくらいの実力だったということではないだろうか?
じゃあ、なんで宗教団体に入ってから強くなったのか?
たまたま全盛期が訪れたのがそのタイミングだったのか?
それとも、そこで修羅場をくぐったのか?
そこら辺にこそ植芝盛平の実力の秘密があると個人的には思っている。
まとめ
植芝盛平って36歳くらいまでは武術が趣味のおっさんでは?
宗教団体に入った後を分析してみると実力の秘密がわかるかも?
もしも35歳くらいの盛平に出会ったら、その経歴から考えると確かに北海道で開拓団を率いたり、スゴイことをやってはいるけれど、武術の達人みたいなイメージではなく背が低いけど自信満々のゴツイおっさんというイメージだったように思う。
てなわけで、そこからどう変わるのかは次回につづく
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経歴と逸話から考える植芝盛平:武の悟りと宗教の悟りは同じなのか?|合気道化師マツリくん|note