失われた技術へのロマン:戦前の合気道について考えてみた
たまに戦前の合気道は今と違って~みたいな記述を本とかでみかけること-がある。
個人的なイメージだと、わりと暴力的なのが戦前、優しめなのが戦後という感じだったんだけど、よくよく考えてみるとそんな単純な話でもない。
ということで戦前の合気道とはどういうことなのか考えてみた。
戦前から習っていた弟子達
戦前はまだ明確に合気道と言われていたわけではなく、開祖も迷っていたのか大東流だったり相生流だったり旭流だったりと名前がコロコロ変わる。
そんな頃からの弟子には富木謙治や砂泊諴秀といった名だたる先生方がいるわけだが、明確に戦前にこだわっていたかというとそうでもない。
あるいは二代目道主である吉祥丸先生なんかは当然ながら戦前から稽古していたけれど新しい時代に対応するために変化した側だ。
つまり誰もが戦前が良かったと思っているわけでもない。
戦後の状況
戦前と戦後の大きな違いは開祖の活動方針だ。
戦前は自ら動いて弟子を集めていたし、指導の中心だったが戦争末期に体調を壊してからは岩間で神社の建設と農業などの隠居生活へと移る。
指導の方は息子・吉祥丸によって一般にも行われるようになり、戦前の少数精鋭みたいな稽古から大規模展開の時代になっていく。
良いとか悪いとか色々と意見はあるだろうけれど戦後の合気道はこうやってつくられて行ったのも事実だ。
危険な技を減らし、大学生やカルチャーセンターといったこれまでにはない場所や人への指導が行われ、そのためにはより体系的な指導方法が必要とされたのだろう。
戦前を意識した弟子
戦前の植芝盛平は大本教の武道部門を担当したり、陸軍や海軍などへの指導も行っていた事から、とにかく強さを追求した稽古だったと思われる。
時代も時代なので時には挑戦されたり、襲い掛かられたりといったエピソードも多数残っているし、そこでやられたりしなかったからこその評価があるわけだ。
個人的に特にそういった姿勢を打ち出していたと思われるのは斎藤守弘と塩田剛三といった先生方になる。
斎藤守弘
斎藤守弘自身は戦後の弟子だけど、戦前の技術書『武道』に載っている技こそが岩間で稽古してきたものだと言っていたり、開祖直伝の稽古にこだわりがある人だ。
合気会がつくった稽古方法よりも開祖直伝の稽古を大事にしたからこそ岩間スタイルとも呼ばれるようになったのだろう。
武器稽古の型を体系化するなど、かなり熱心に岩間の稽古を残すことを目指し、開祖の没後もそのやり方を変えずに貫いた。
柔らかい稽古や技ができたいう話もあるけれど、あえてそれをやらずに開祖の稽古が失われることのないように、その姿を残すことに重きを置いたという話がある。
塩田剛三
塩田剛三は養神館合気道を立ち上げて、合気会とは別の路線を取り戦後の開祖に対しても否定的だった。
武術的な合気道をやるのは自分が最後でいいといった発言もあることから、本人からは戦前に開祖から学んだことに対する強いこだわりを感じる。
けれど井上強一の著書などによれば晩年には変化があったらしい。
開祖の言葉の裏付けが取れてきた、身体で理解した自分が一番開祖の境地を体現している、といった発言が残されている。
戦後と何か?
戦後に合気道の型や稽古方法が変わっていったことは間違いない。
しかしそんな中でも合気道10段を植芝盛平から直々に与えられた藤平光一をはじめ、高い段位を公式・非公式に与えられた弟子達は数多くいる。
そんなわけで戦前・戦後でどっちかが特に優れているといったことはないように思う。
また開祖の思想と身体が一致したという意味では、戦前に神の武道だと言いながら相手を倒す方法を教えていた頃よりも、戦後の方が矛盾のないものになっている。
戦前とは何か?
それも踏まえて戦前とは何か?を考えてみるとそれはやっぱりロマンだと思う。
今では絶対にやってはいけない技、人間を破壊する攻撃、禁止されているものにはロマンがあるのだ。
そういう夢が詰まっているのが戦前なんじゃないかなと。
歴史的な価値として、あるいは型として、そういった考え方や技があること自体には意味がある。
しかし、もう戦後78年、戦前から合気道をやってて存命の人もいなくなるし、これからは何をやっても戦後の合気道になっていくのだろう。