やさしい人たち
昇格試験の論文指導をしていたメンバーから「試験が終わったらご飯をたべにいきましょう」と誘われていて、試験が終わったこの週末、すすきのの街中華でごはんを食べながらいろいろな話をした。仕事で時間が遅くなって店に入ったのが8時過ぎになったのだけれど、話し込んで気が付けば0時をすぎて閉店時間になっていた。論文指導の御礼でごちそうしてくれるわけではなく、いつもどおり私のおごりだけれど、一回り以上も年下の部下が食事に誘ってくれて、二人で何時間も話ができるのは単純にうれしい。
一緒に飲んだ部下は10年前に私が初めて小さなプロジェクトを任せられた時に一緒に仕事をした、私の初めての部下だ。今回のプロジェクトが始まるタイミングで、東京に異動していた彼をほかのプロジェクトから半ば強引に引き抜いて久しぶりに一緒に仕事をしている。当時は入社3年の若手だった彼も今のプロジェクトでは二人の若手社員を部下に持つ主任として奮闘している。彼にとっても初めて部下がいる環境で自分のプレイヤーとしての成果だけでなく、若手の育成にも責任を持つ立場となり、社内的にも管理職となるための試験を受ける時期になっている。
彼に対する私の評価は「やさしい人」。
人当たりもよく、感情を高ぶらせるようなこともないから若手にとっても相談しやすいだろう。職場には色々な人がいて、いわゆる「仕事ができる人」というのは他人を突き放すようなところやできないメンバーを放置してできる人間だけで仕事をすすめようとするところがあるけれど、彼にはそういうところがない。いまいちと評価されているような若手社員に対しても「彼に対する職場内の評価は間違っている、ちゃんと丁寧にフォローすればしっかり仕事をしてくれますよ」と熱く語っていた。「できない奴」で切り捨てるようなことをせず、ひとりひとりの性格や仕事への向き合い方も考えながら若手の育成に関わってくれる彼はそれだけで貴重だ。自分の評価を上げたがる人間に限って、パフォーマンスが上がらない理由をできない人間のせいにしたがる。自分の仕事の成果があがらないのは、できない人しか部下にいないから、と言う論法だ。
確かに組織にとってはそういう側面もあることは否定しないけれど、私は思う。「成果を上げられる優秀な部下を配置したら仕事ができるというなら、あなたの役割は何なのか?」と。
優秀なメンバーがいれば仕事ができます、というのはあたりまえのことで、フォローも育成もしなくても仕事ができる部下をつけてくれというのは、自分が部下の育成をしませんと言っているようなものだと私は思ってしまう。
そんな中で職場内であまり高い評価を得られているといえない部下を配置されてそれでも彼を評価しながらフォロー、育成に奮闘している彼の存在はとても頼もしい。
麻婆豆腐を食べながら、彼に言った。
「優先順位を間違えたらだめだ。会社の利益なんかより、部下の幸せを優先しよう。彼らの人生のためにできることをやろう。私たちは彼らの人生に責任があるんだ」と。
いつも聞いている深夜ラジオの放送で、爆笑問題の太田光がピーコさんの訃報に際して「絶望的なほどにやさしい人だった」と話していた。報われないことが分かっていて尽くすやさしさ。見返りを求めないやさしさ。それはきっと報われるかどうかは関係なく、そして自己満足とも違う、打算とは切り離された純粋なやさしさなのだろう。
打算のないやさしさ
やさしさを押し通す根性
私もいつか、持てるだろうか。