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20250115 大天才はどこにいった? 芥川賞の変化と小説家の変化
第172回の芥川賞の受賞者が決まったようです。受賞された方のお名前と作品名とあらすじをニュースで確認してみましたがまず読まないだろうなあと。
芥川賞が話題に上らなくなったのは年2回になってありがたみがなくなったからかなあとか選ばれる作品の質が変わったからかなどといろいろと考えていましたが,今回改めて思ったのが「小説家になる人の変化」だろうなあと。
三島由紀夫といえば銀時計を思い出しますが,昔の著名な小説家はすごい賢い人が多かった気がして,そうした大天才が小説という表現手法を用いていたからこそ小説家は高く評価され,優れた小説かを選ぶ賞として一番権威のあった芥川賞の権威が高かったのだと思います。
これは昔は世界を動かしうる表現手段として小説や絵画,音楽などの芸術しか存在せず,そのためいろんな天才がその作り手になることを目指したからだと思います。
このあたり,小説家ではないですが淺田彰先生が全体的に話題に上がったあとくらいで潮目が変わった気がするのですがどうなのかなあと。
でも最近はそういった方はあまり小説家を目指さなくなったのだろうなあと思います。そのため「大天才に興味のある人」が小説に興味を示すこともなくなったため,芥川賞への関心も下がる一方なのだろうなあと。
そして評価される作品も,昔は何かこうそれを読めば何か未来や高みや進化の感覚を得られるのではないかという期待を感じさせるものが評価されていたのに,今では路傍の石にも名前があるよとかその石の裏にも虫がいるよとか言った感じのものばかりな気がして,確かにそういうのに目を向けるのも大事だろうけどなあ…となることが多い気がします。
そういう意味では,結構天才的な人はインスタグラムとかよりXをしている人が多い気がして,そこでのつぶやきなどに神性を感じたりすることもある気がするので,Xの芥川賞などを作ってくれるといいのになあと思ったりしました。