久坂葉子『愛撫』とパフォーマンスの皮肉
久坂葉子は小説、詩、戯曲など数多くの作品を残した作家である。1931年神戸市生まれ。19歳の若さで芥川賞候補。そして21歳の大晦日、特急電車に飛び込み自らの命を絶った。
彼女が自殺する直前に書き上げた作品『幾度目かの最期』では、小説としてではなく、久坂の心情がありのままに描かれている。幾人かの男性の間で揺らぎつつ、相手の感情を取りこぼすまいと思案する姿。自分の愛をどこに所在させるか悩み、自らを「みにくい女」だともこぼしてしまう。
恋によって死を選ぶこと。
たったそれだけのことで、まだ若いのに、どうして、そう思うかもしれない。しかし、久坂の強さを語りたい。自己をまっすぐに見つめ「生活」に身を置きながらも脱却しようとする姿勢が、そこにはあるのだと。
本記事のタイトルにある『愛撫』は、久坂による短編小説である。
主人公は若い女性。研究室にて、彼女と教授による逢瀬の場面から始まる。彼女は自分の中に恋心がないことを分かりながら、彼を愛する女のふりを続けていた。教授は妻子を持ち、また「ドン・ファンである」と噂がたつような人物でもある。
彼女は、別れの言葉を口にして研究室を出ていく。教授と別れたあと、彼女は自分の感情を見つめることになる。彼の姿を探してもみつからず、電話をかけても忙しいと断られる。そうして「捨てられた女の列」に加わったことを悟る。まだ残る愛撫の感触の跡を消そうと、もだえながら。
自己を晒すことには、危険が伴う。相手だけが安定した契約を保持しているのであれば、なおのことだろう。
思い出してしまうのは山崎富栄のことである。作家・太宰治と愛人関係にあった彼女は、太宰との心中自殺でその一生を終える。
正妻の存在を知りつつ、恋を、感情を、ひいては自分自身を実現するためにはどのような思考と行動が必要なのか。自分と相手の間には信じられる契約が存在しないと理解したままで。愛する人と死を共にすることは、確実な何かを手にするためのひとつの方法であると言える。
だが、生命を維持したまま、「恋人」の不安定さに呑まれず息をする手立てはあるか。愛する人が、自分よりもはるかな安定を手にした状態で。自分の足元だけがぐらつく関係で。
『愛撫』において主人公がとった行動は、そのような不均衡を乗り越えようとした結果生まれたものではないか。
彼女は、教授に惚れているわたしを「演じる」ことで、不安定さを解消しようと試みる。パフォーマンスすることで、つまり、表出するものをコントロールすることで、相手に闘いを挑む。年齢も、地位も、社会的にそうであるべきと押し付けられた役割もすべてあえて演じてしまう。こころの中の「わたし」と実際に表れる「わたし」の間にあるズレは、皮肉のそれと似ている。
しかし、衝動は堰を切ってあふれだす。「あなたがもとめるわたし」 と「あなたをもとめるわたし」は異なるのである。
どちらのわたしも、ただ、愛を捧げたいだけなのだが。
自己の感情にふりまわされること、ときには死を選ぶこと、そのすべてをいとおしめたとしたら。苦悩もすべてひきうけた上で。
参考・引用
早川茉莉、2008、『エッセンス・オブ・久坂葉子』河出書房新社。
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