「ひさしぶり!」は何日目の再会か?
「久しぶり」の全国方言分布図を見ていきましょう。これは「まあ!久しぶりだね!」と言うときの、「久しぶり」の分布図です。この表現も周圏分布していて、本土でいちばん古いのは、東北に広く分布し、また西日本では山口県や高知県などに見られる「シバラク」ではないかと思われます。まずは、この言葉から見ていきましょう。
「シバラク」と挨拶する野辺地の人
私が「しばらく!」を聞いたのは、20世紀末、青森県の野辺地という駅の構内においてです。マグロ漁で有名な大間町、この本州最北端の町へ向かう途上でした。言葉の旅路の北の終点を見てみたかったのです。
下北半島を北に向かうには、野辺地駅で乗り換える必要があります。その時間を手持ち無沙汰に過ごしていたとき、右と左に立った70歳ぐらいの男性と女性が再会するシーンに出くわしました。男性が、
「しばらく!」
と嬉しそうに声をかけると、相手の女性も笑顔で、
「しばらく!」
と返したのです。「しばらく」とだけしか言わない再会の挨拶でした。
ここ下北半島は「シバラク」の国なのだ、と私は淡い感慨に捉われたものです。
文献では「シバラク」は挨拶ことばとしては古いものは確認できませんが、少しの間という意味の「シバラク」は、「しばらくにても恥を見」と、10世紀の『落窪物語』にもありました。これが、のちに京の都で、再会のとき「久しぶり」の意で用いられるようになったものでしょう。「しばらく会っていなかったね」を短く表現したものと考えていいのです。今もときおり標準語として通用するものです。
ところで、本土の外側、南の琉球を見ると「久しぶり」を意味するのは、「ゆきあふ」をルーツとする言葉ばかりです。「ゆきあふ」は万葉集にも出現する古いやまとことばです。「行って、たまたま出くわす」が本義でしょうが、「久しぶり」の意に転じたのでしょう。琉球で独自に意味が転じたのか、あるいはすでに奈良・京で転じたものが発信されていたものか、これについては分析の難しいところです。
日本全国の「久しぶり」表現
「シバラク」のあと都で流行りすたりし、方言として残っている言葉の多くは、現在でも意味のよく理解できる言葉が多いのが印象的です。ただひとつ「ヤットカメ」を除いては。この言葉は後回しにして、ほかの語を分析してみましょう。
「ナガイコト」、そして「アッテナイナ」、すなわち、合わせて「長いこと会ってないな」は、まさに「久しぶり」の言いかえとしか言えないでしょう。
四国に延びる「トードーシー」も以下に見るように、奈良・京の都ことばです。
「遠々しい」は、まさに「ナガイコト」「アッテナイナ」を、これまた同様に言いかえたものと思えます。
それから「メズラシー」。会っていないから、会うこと自体が「珍しい(メズラシー)」ことであったでしょう。
「ヒサシー」は、語尾に「ブリ」が付くより一時代前の表現と読めます。
そして室町時代末ないし徳川時代初期あたりに、三日ぶりなど「時間を表わす語に付いて、それだけの時間が経過した意を表わす」(日国)ために用いる「ブリ」という表現が広まると、新たに「ヒサシブリ」や「センドブリ」のバリエーションが生まれます。一方で、古い「シバラク」にもまた「ブリ」が付け加えられて「シバラクブリ」が生まれたものかと思われます。
最後に上方で生まれたのは、「ご機嫌さん」です。これだけがそれまでの歴史から発想を変えた、斬新な表現だったように思われます。
名古屋の「やっとかめ」とは何か?
さて、最後に「ヤットカメ」です。「ヤットカメ」とは、とても異質な響きです。何に由来する言葉なのでしょうか、気になります。
名古屋市で育った大学時代からの友人・浅尾克巳氏にラインで聞いてみました。こんな回答が返ってきました。
「僕が幼いころはまだ、日常的に使用されていました。埼玉から嫁いで来た母は、最初何のことか分からなかったようです。母は『やっと』プラス『亀』で、『やっと亀』だと理解していました。僕は語源については、残念ながら認識していません」
というものでした。
「ヤットカメ」は、きしめんや、ひつまぶしとともに、名古屋の代名詞としてよく知られ、名古屋市出身の作家・清水義範氏が、名古屋のおばあちゃんたちが事件解決に乗り出す『やっとかめ探偵団』シリーズを書いて、さらに有名になりました。
しかしこの「ヤットカメ」は、じつは名古屋市だけではなく、岐阜県・三重県・愛知県などに広く分布し、まさに中京地域を代表する言葉なのです。
一部の辞書、方言書では「ヤットカメ」の語源について言及しています。デジタル大辞泉の記述を見てみましょう。
つまり、「ヤットカメ」とは、「80日目」に由来するとされるのです。
NHKは1988年に、銀河テレビ小説の枠で「八十日目(やっとかめ)だなも」というシリーズドラマを、放送したこともあります。「80日目」説に則っていることが分かります。
なんで80日なのか?
「80」のことを「八つの十(とー)」と理解したら、「80日目」は、たしかに「ヤットカメ」と読めます。しかし、こんな読み方を、日本人はしてきたでしょうか?実際は「ハチジュウニチメ」と読んできたはずです。あるいは訓読みするなら「ヤソカ」でしょう。
八十島(やそしま)という言葉が、万葉集以来日本にはあります。たとえば、
やそしま(八十島)は「多くの島」の意味であり、ほかに『古事記』以来の「やそがみ(八十神)」といった表現もあります。「やそ(八十)」というのは、80という数字ばかりでなく、実際は「数が多い」ことを意味してきました。
こうして眺めてみると、「ヤットカメ」の語源を「80日目」とするのは、牽強付会(けんきょうふかい)であるかと思えるのです。
ほんとは、どこから「ヤットカメ」という語はやってきたのか?
「ヤットカメ」の真相を知るためには、ほかの流行りすたりした言葉についても吟味する必要があるでしょう。方言分布図に描いた円周も指標になります。試みてみましょう。
「ヤットカメ」と「エットブリ」が描く同心円
京を中心点として中部地方の「ヤットカメ」の広がりに合わせて円を描くと、なんということか、西では同じ円周上に、徳島県の「エットブリ」が見いだされるのです。
東の「ヤットカメ」と、西の「エットブリ」。何か関係がありそうではありませんか。
まず東の「ヤット」と西の「エット」の言葉が、とても似ています。本来は同じものではないのか?調べてみました。
日本初の全国方言辞典、越谷吾山著『物類称呼』(1775)には、こう書かれていました。
つまり「久しい(すなわち、久しぶり)」ということを、関西でも関東でも、どちらでも「ヤット」と言ったり「エット」と言ったりする、と述べているのです。
私はこう解釈します。
徳川時代、京から「ヤット」と「エット」の両語が「久しぶり」という意味で発信され、地方に向けて地を這う旅をはじめた。この言葉は「言語島」である江戸にも飛び火した。
徳川時代、語尾に「ブリ」を付けるのは、都ではトレンドだった。そうなると「ヤットブリ」「エットブリ」も京都から発信されていたはずです。この「エットブリ」が、時代を超えてそのまんま徳島県に残された。
一方、中部地方では、「ヤット」が残り、さらに「カメ」も加わって、「ヤットカメ」として残った。
以上のようなものではないかと考えられます。
でも、本当にそうなのでしょうか?「カメ」は、いつ、どこの町で加えられたのでしょうか?
「ヤットカメ」の「カメ」の発生
かつて、兵庫県神戸市の方言集に、久しぶりの意味で「センドメ」が拾われていました。
「センドメ」とは何か?
似たような表現「センドブリ」という言葉が都から発信されたことが分布図で読み取れます。これと関係がありそうです。
「センド」は「先途」や「先度」ではなくて、「千度」のことでしょう。本来は「千回」の意味ですが、徳川時代の上方では「分量の多いさま。たくさん。どっさり」の意味もありました。例の『物類称呼』でも、同じようなことを教えてくれます。
思い出してみると、たしかに関西で「せんど(千度)」という語はかつてポピュラーな言葉でした。祖母の世代などは「せんど食べた(どっさり食べた)」「せんど待った(長い間待った)」などと言っていました。後者の「せんど待った」の「千度」の意に「目」を加えたものが、久しぶりという意の「千度目」でしょう。
ここで「目」という語彙が、先述のように、京都より西の兵庫県で使われていたことに注目すべきです。「振り」の意味の「目」は、京から東西に向けて発信されていたのです。そうなると、「ヤットカメ」は、徳川時代の都ことば、つまり京都で発生した言葉の可能性もあると考えていいものかと思われるのです。
なぜ「ヤットメ」でなく「ヤットカメ」となったか?
何日目かを告げる場合、一日目だけは「イチニチメ」と読みますが、二日目から十日目までは、「カメ」が付きます。フツカメ、ミッカメ、ヨッカメ、イツカメ、ムイカメ、ナノカメ、ココノカメ、トーカメ。
この圧倒的な割合の「カメ」が、「ヤット(久しい)」と結びついたのではないか。私にはそう思えてしまうのです。
いかがでしょうか。