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千少庵
いやぁ〜前回のnoteから、またまた間が空いてしまいました・・
この期間も本は何冊か読んではいたんですけども
なかなかねぇ〜
noteする手が・・
指が・・
いやっ、脳が・・
沈黙・・
状態でした・・😅💦
noteさんからの通知やお知らせも減り
とうとうnoteさんからも見捨てられたん・・😭
そんなことでは
あかんあかん
とは思いながらも
違う違う
そうじゃ
そう〜じゃ な〜い
とは思いながらも
時間だけが過ぎていく・・
ロンリーチャップリン・・
ふと
机の上の積読本に視線が
『二代 少庵』
これや‼️
前回のnoteが『千道安』
利休居士の嫡子である『道安』
利休居士の養子に迎えられた『少庵』
奇しくも同じ1546年(天文15)に生を亨けた同い年
共に同じ時代を生き
縁あって同じ父をもち
そして同じ『茶の湯』の道を歩む
というわけで
今回のnoteは『千少庵』です🍵
とはいえ『道安』同様『少庵』も
私ごときが知り得る資料はほんと少ないです・・
なので、知り得る資料をもとにした
私個人の見解が殆どになります
お許しくださいませ🙇🏻♂️
『少庵』
その出生についても諸説あったようですが
現在では
母が後に利休居士の後妻となる『宗恩』
父 『宮王三郎鑑氏』みやおうさぶろうあきうじ
ということになっているようです
堺で生まれ、幼名は猪之助
通称として吉兵衛、四郎左衛門
長らく宗淳を名乗る
現代を生きる私にとっては
もうすでに「ややこしい〜〜・・」
幼名や通称、2つくらいならわかる気もしますが
名前が3つも4つもあるって・・
「誰やねん・・」
昔は当たり前やったんでしょうけどね
いやぁ〜ミステリーですよねぇ
今でいう
ペンネームやラジオネーム、アカウント名
みたいな感じなんでしょうかね
母『宗恩』は大変お美しいかただったようで
父『宮王三郎』亡き後、いや、亡くなる以前から
各方面の男衆から「いつかワシのところに」と狙われてたみたいです
その男衆の中のお一人が『千宗易』
そう『千利休』
なので、少庵が『吉兵衛』と呼ばれてた幼い頃から
利休居士と少庵は出会っていたんです
もちろん、その頃『与之助』と呼ばれていた道安とも
出会っていました
まだ、利休の妻は道安の毋『お稲?』
少庵の母、宗恩の夫は『宮王三郎』
もう既にこの頃から、少庵『吉兵衛』の運命は
荒波へ荒波へと引きずり込まれていくことに
同じく道安『与之助』の運命も
そんなこともあり
少庵も幼い頃から茶の稽古は
利休居士にお稽古つけられてたようで
やがて、利休居士の養子となり京へ移ります
よく、道安の茶は豪快で『動』
かたや少庵の茶は柔軟な『静』
といわれたりしますが、実際のところどうだったのか?
有名な逸話に竹の蓋置の逸話がありますね
利休居士が道安と少庵にどちらの蓋置が良いか選ばせ
節のある太い竹蓋置を選んだのが道安
節のない細めの竹蓋置を選んだのが少庵
まぁ、これもね
ほんとは節のある方を少庵は選びたかったけど
先に手に取ったのが道安やったかもしれないし
「多分こっちを道安が選ぶだろう」と思い
かぶらないよう節無しを選んだかもしれない
いや、ほんとに節無しがいいと思い
少庵が先に取ったとしてもおかしくない
逆に道安も少庵と同じような思いだったかもしれないし
2人共、ただ直感で決めたのかもしれない
いやいや、実は、2人共逆の蓋置を選んでたのに
逸話にした人が「自分のイメージと違う‼️」と
勝手にそんな逸話にしたのかもしれない
利休居士は大柄だったといわれてますし
その嫡子である道安も大きな体格だったかもしれません
少庵は、足に病を患っていたといわれてますから
がっしりというイメージではないのかもしれません
ただこれも、足に病をかかえていたのは「実は道安のほうだった」
という説もあるみたいですしね
もう一つの逸話で
休、ある時、中柱入りたる小座敷に、自在に釜をつりて、独ある所へ、少庵見舞ふて、「此座敷にハ、自在取合申さす」といふ。休、「むかしより、誰も釣にいハれさる。こしやくの」とあれは、少庵、「誰がつろうと、まゝよ、とかく自在ハ取あハぬ」といひ捨、かつ手へ入ル。
ある時、利休が中柱のある小座敷で自在に釜を釣って
1人で居たところ、少庵が現れて
「この座敷に、自在を取合せるのは似合わない」と進言し
利休は「昔から誰もが釣っている。こしゃくな事を言うな❗️」
少庵「誰が釣ろうと同じ事、とにかく自在は似合わない‼️」
と言い放ち勝手へ入った
実際どうだったかわかりませんが
師匠であり父である利休に対し
「おかしいものはおかしい‼️」と言い放てる少庵
さあ、これが道安だったらどうでしょうか❓
果たして少庵と同じように言えたでしょうか❓
道安が利休に対してこのような逸話があるかといえば
私の知り得る範囲では見たことがありません
豪快な道安❓
穏やかな少庵❓
少庵の好み道具に『夜桜棗』があります
黒棗の下地に黒漆で桜の花を描き
さらに黒漆を上塗りした棗で
ほのかな灯りに透かすと
ぼんやり桜の花が浮かび上がって見える
華やかさを内に秘めた慎ましさ
心の眼・心の花を重んじ貫き通した利休居士
その侘び茶の心を静かに花開かせ受け継ぐ少庵
その思いが儚くも美しい夜桜に託されたような
『夜桜棗』
温和ながらも強靭な心を内に秘めた少庵
と少庵を捉えたならば
少庵の人柄をよく表したお道具かもしれませんね
表千家 左海大宗匠のお言葉を引用させていただくと
伝世する少庵の道具や遺構などは多くなく、少庵という人が今なおおぼろげな存在であることに変わりはない。しかし不明瞭な部分の多い少庵に対して、即中斎(表千家13代)は次のように語っている。
「私としては、あのおだやかで、時代的な重圧の中に一生を終わり、しかもある意味で千家を今日まで続ける基礎をつくった功労者少庵さんを、そっとこのまま伝説のままにしておきたいと、なぜか思われてならない。」
利休切腹にともなう会津蟄居という冬の時代を経験しながらも、そこに一筋の光明を見出し、静かな輝きを放った生き様は、好み道具にも確かに表れている。
しかし即中斎の言葉の通り、その人物像がおぼろげで今もなお人々にさまざまな想像の余地を残しているところに、少庵らしさがあるといえるのかもしれない。
私が学んでおります裏千家
今現在、御家元は第16代 坐忘斎玄黙宗室御家元です
16代‼️16代です‼️
表千家 第15代 猶有斎宗左御家元
武者小路千家 第14代 不徹斎宗守御家元
利休居士から続きます千家茶道
どの代が欠けてても、現在はありません
その中でも、動乱の戦国時代を生き
茶の湯の世界においても、師匠であり父である
利休居士の切腹
そして、そんな時世の中
利休居士の残した茶の湯の精神を
「なんとしても絶やしてはならない」と
あらゆる手立てをとったであろう少庵居士
少庵居士がおられたからこそ
宗旦に受け継がれ
今現在にまで千家茶道が続いている
最後に表千家15代 猶有斎宗左御家元のお言葉を
引用させていただきます
表千家の新年は残月亭での大福茶で始まる。家族や内弟子で濃茶を飲み廻した後、床間に『少庵召出状』と『香箱の文』を年ごとに交互で掛ける習いになっている。
これはいずれも千家二代 少庵宗淳ゆかりの掛物である。千家茶道が今日まで受け継がれていることへの思いを新たにして新しい年を迎えるのであるが、その草創期、千利休なき後の千家を支えたのが少庵なのである。
『少庵宗淳居士』
偉大な父をもち、動乱の時代を生きながら
守るべきものを守りぬいた『少庵宗淳居士』
父は千家茶道の創生者であり、侘び茶を確立させた
『千利休』
子は千家茶道ひとつの節目でもあり
利休・少庵と受け継がれた侘び茶の心を
後々の時代にまで継承させる道筋を築いた
『元伯宗旦』
『少庵宗淳居士』
決して、利休から宗旦への繋ぎということではないと思います
好み道具や少庵の逸話などからもみられるように
『少庵の茶』というのが存在し
激動の時代の中に静かな輝きを放ちながら
利休が伝えた侘び茶の心を守りぬき
宗旦へ継承させる
少庵というお方が居なければ
今の千家茶道は無いでしょうし
茶の湯自体もどうなっていたのかわかりません
少庵という方が居られたからこそ
なんとか守りきれたんだと思います
私のnoteなんてほんの一部にすぎません
ぜひ❗️皆さんも皆さんなりの
『少庵宗淳居士』に触れられてみてはいかがでしょう☝️🍵
今回も長々と長文にお付き合いいただき
ありがとうございました🙇🏻♂️