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”思い込み”から脱するために…。

視点をどこにおくか?ということで記事を書いてみた。
書いてみて気づいた事は、「欲求の対象に目を向けるのではなく、欲求はなぜ生み出されたのかというインサイトに目を向けてみること。」であった。
その内容は、「なぜ?」に目を向けるよう捉え直すことであった。

さて、ではいったい。私はなぜ、「主体的で意味のある、そして、価値のある休日」がほしいと考えているのだろうか?

このことを考えるために、ひとまず休日とは何か?というそもそもについて目を向けてみようと思う。

私は今、高校の教師をしている。(他の職業に就いたことがないので、教師をしているという目線でしか語れない…。)

まず、「休日」は、仕事や授業がない日。というのが一般的だ。しかし、夏休みや冬休みという休みのように見える期間においても、授業がなくとも、仕事をしているので、これでは明確に定義はできない。
次に、「休日」は「仕事」をしない日。としてはどうか。適切な感じもするが、教師という職業は、「仕事」の範囲が曖昧だ。例えば、授業の準備は、それなりの時間を必要とするので、いわゆる「休日」という時間に食い込んでいく。他にも部活動の指導や引率はどうか。

しかし、このようにまとめると、ここに、「なぜ?」のヒントが隠されているように感じる。

そこで、休日の辞書的な意味について調べてみた。

休日…デジタル大辞泉
休みの日。業務・授業などを休む日。
 国民の祝日のこと。
休日…人材マネジメント用語集
労働契約上労働義務のない日のこと。

weblio辞書

辞書的、法規的にはこのような内容だ。
くり返し、読んでみる。
休みの日。業務・授業などを休む日。
休みの日。業務・授業などを休む日。
休みの日。業務・授業などを休む日。

休みの日。業務・授業などを”休む日”

!?”休む日”!?と書いてある。

「休む」ということは、「あぁやっと休める〜」とか、あなたは「休んでいいですよ〜」ということではなく、自ら「休む」という時間を作るという事になる。

どうやら、私は、”休日”という存在を、自ら「休む」という主体的なものと捉えていなかったようだ。
思い込みは恐ろしい。
それと同時に、ちょっとだけ悲しくなった。

それだけ、自分の意志ではなく、見えない何かに囚われて生きてきたということに気づいたから。
もっと、”わがまま”に生きてもいいのかも…。


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keiichi MATSUI(松井 恵一)
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