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”正しさ”に応えることで、わからなくなる自分の姿…。

「何がしたい?」と問われると、急に自分がわからなくなる…。ということで記事を書いてみた。書いてみて気づいた事は、「周囲からどう思われるか?」という評価される前の自己判断がある。ということであった。要するに、周囲の目に対する怖さ。ということだ。

いわゆる”優等生”であった自分…。

思えば、かつては”いわゆる優等生”であった。
求められる”正しさ”らしきものに応えることが、そしてその応えることによって褒められることが、心地よかった。
自分の欲求とか欲望みたいなものはあったのかもしれないけれど、いわゆる優等生であることが心地よかった。
いつの日か、その自分が自分であり、それを時には演じることで自分というものを保ってきたのかもしれない。
だから、自分の欲求とか欲望を出すことは”正しくないこと”であるという認識になっていったのだろう。

脱するチャンス。そして、見えなくなるチャンス…。

大学生になったとき、何か解放されたような気持ちになったのを思い出した。そういえばこの時がチャンスだったのかもしれない。
正解を求めなくても、他者からの正しさを求めなくてもよくなった。
解放された。

しかし、就活がはじまったあたりから、少しずつその様相は変化してきた。思うように生きようとしてきた自分、そして、友人たちも就活という社会の波の様なものに飲み込まれていった。
自己分析をすること。
企業にはがきを送って、先輩訪問をすること。
説明会に参加すること。などなど。
超就職氷河期といわれる大きな渦の中に、自分というものを自分で放り込んだ。
そして、チャンスは手の届かなくなるどこかに行ってしまった。

教育を変える!と意気込んだ教職スタート…。

そのような中でつかんだ教員の道。
「教育を変える!」とよくわからない自信で飛び込んだ。
しかし、そう簡単に自分の思うような変化を求めることなどできなかった。
圧倒的に実力のない自分。
圧倒的に知識不足の自分。
そういった圧倒的な劣等意識の中で、自分を保つために掘り出したのが、”いわゆる優等生”であった。


そしてまた、周囲の目を気にするようになった。

嫌なことを嫌だと言えない。
なんかおかしいな?と思っても言えない。
言いたいことを言っている人を見ては嫉妬して、羨んだ。
そして、そのような人を否定した。


みんながそうしているから…。

ありふれた日常生活の中にも、実は権力構造が潜んでいて、人々はそれに順応し、規格化されている。

令和7年度大学入学共通テスト「公共・倫理」

共通テストの問題の選択肢に、このようなものがあった。
まさに…。そう感じた。

私たちは、知らず知らずのうちに、「規格化されている」し、「規格化している」。また、規格化された中では、規格に従った方がいつしか楽になっていく。それに反対する方が面倒だからだ。パワーを必要としないからだ。

そして、いつしか規格化された状態の中で、自分を見いだすことを忘れていく…。

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keiichi MATSUI(松井 恵一)
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