見出し画像

一問一答で答えられるほど”自分という存在”は単純ではない。

「"正しさ"に応えることで、わからなくなる自分の姿」ということで記事を書いてみた。書いてみて気づいた事は、「”自分の姿”を見いだすチャンスがありながらも、求められる”正しさ”に応える中で、自分の欲求や欲望を抑圧し、「自分のしたいこと」がわからなくなる。」ということだった。
要するに「規格化し、規格化された状態の中で、自分を見いだす”何か”を忘れていく…。」ということだった。

そういえば、”趣味って何ですか?”

そういえば、”趣味”を問われることにちょっと困る。
何を返していいかわからないからだ。

例えば、趣味を問われたときに「音楽」と答えるとする。
(実際、そう答えることもある。)
そうすると、好きなジャンルは?とか、好きなアーティストは?とさらに聞かれることになる。
そう一問一答のように。

ちょっと困る。

以前、どうにも答えることができなくて、映画と答えたことがあった。
そうしたら、「最近何を見ましたか?好きな俳優は?」と矢継ぎ早に問われて、困った。
そもそも具体的に好きな作品がある訳ではない。

「映画を眺めていること」や家で「映画がながれている」
その空間に自分がいることをおもしろいと感じている
からだ。

同じことが、音楽にも言える。
「音楽が流れていること」や家で「音楽が流れている」
その空間に自分がいることや”空間と自分と音楽”との関係性が興味深い
と感じているからだ。

徐々に…。

書きながら気づいたような気がする。
”趣味”が問われるシーンとは、少し前までは、お互いに知らない間柄である場合だ。だから、知り合った瞬間から、互いが互いのことを”知る”領域を重ねようとする
”趣味は?”というぼんやりとした言葉をきっかけに、徐々にその内容を具体化していく。
徐々に…。
そうして、互いが何に対してどのような認識の方法や受け止め方をするのか、何に心引かれるのかを重ねようとする。
これが、互いの理解ということか。
ぼんやりとした言葉では、それぞれの個の”言葉”についての認識しかない。
だから、ぼんやりとした言葉に、自分なりの言葉を追加していく。

趣味が”音楽”という言葉だけでは、それが何であるかはわからない。
聞くことなのか、それとも演奏することなのか。
それとも…。

あせらなくてもいい。

だから、あせらなくてもいい。
ゆっくりと、その言葉の意味を、価値を、関係を、紡いでいけばいい。
そして、あせらずに、自分と向き合えばいい。
人間という存在そのものが複雑なものなのだから。

気持ちが少し楽になった。

いいなと思ったら応援しよう!

keiichi MATSUI(松井 恵一)
よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!