ラサ・サヤン(58)~久美子プルカダンさん~(石川礼子)
〜『よりどりインドネシア』第178号(2024年11月23日発行)所収〜
ひまわり会
ジャカルタには、インドネシア人と結婚した日本人女性の会「ひまわり会」があります。
ひまわり会は1997年6月に設立されました。1960年代の戦後賠償留学生制度で日本に留学したインドネシア人男性と結婚した女性たちが中心となって設立、現在、会員はバリ島を除くインドネシア全国に約200名います。会員の年齢は幅広く、20代から80歳を超える方々がおり、インドネシア人の伴侶との出会いの場所も経緯も様々です。
私も会員の一人で、私が主人と知り合ったのは留学先のニュージーランドでした。私のように留学先で知り合ったという会員には40~60代の女性が多くいます。それに対し、先輩方は1944年~1945年の南方特別留学生制度、そして1960~1964年に実施された戦後賠償留学生制度で来日したインドネシア人と大学のキャンパス内外で知り合った方が多くいらっしゃいます。その先輩方は現在70~80代の知的で上品な方々が多く、私が憧れる女性たちです。
そんな方々のご主人との出会いや結婚に至るまでのストーリー、そして60~70年代のインドネシアに移住した当時の苦労話やその後の生活など、先輩たちの人生経験を伺いたいと以前から思っていました。はばかりながらも『よりどりインドネシア』の執筆者の一人となったことで、その願いが叶うことになりました。これから、許される範囲でなるべく多くの先輩たちのお話をお聴きして、皆さんに素晴らしい日本人女性のストーリーをご紹介していきたいと思います。
今回、トップバッターに相応しい「インドネシアで最初の日本人通訳者」となられた久美子・プルカダンさんをご紹介したいと思います。
ご主人との出会いから結婚
久美子さんは1946年の東京生まれ、現在78歳でいらっしゃいます。私がJTBジャカルタ支店で働き始めた1993年当時、久美子さんは既に通訳者としてのキャリアが確立されており、あちこちから引っ張り凧だったと記憶しています。
商社マンでいらしたお父様の駐在で、パキスタン・カラチのアメリカンスクールで学ばれていましたが、印パ戦争の政変により日本政府の専用機で帰国されました。その後、東京のアメリカンスクールを卒業された後、ビジネススクールに入学されました。久美子さんはお友達に誘われて、当時、東京の飯田橋にあった財団法人『アジア友の会』に入会します。『アジア友の会』の活動目的は「欧米だけでなく、アジア人学生との交流を通じてアジアに目を向けよう」というものでした。久美子さんは青年部ですぐに才覚を表し、部長に任命されます。青年部の活動として、アジア人学生を中心とした「遊説旅行」がありました。アジア人学生15~17名に日本人1~2人が付き添って地方に出向き、アジアの文化を紹介するというものでした。各地方では、その土地のライオンズクラブが協力し、アジア人学生のホームステイ先を探してくれました。
その青年部が東北旅行に行った際に、当時、戦争賠償留学生・第3期生として早稲田大学大学院理工学研究科に学んでいたプルカダン氏が参加、そこで久美子さんと知り合うことになります。プルカダン氏はジャワ人ですが、スラウェシ島のマナドで生まれ育ちました。久美子さんは旅行でのプルカダン氏の話が大変面白かったことから、東京に戻った後もプルカダン氏を含むインドネシア人男性数名と日本人女性数名でのグループ交際を続けます。
忙しくしているのが好きな久美子さんは『アジア友の会』以外に、ビートルズ(1960年代から1970年にかけて活動したイギリス・リヴァプール出身のロックバンド)のファンクラブの創始者の一人として運営に携わることになります。ビートルズのイベント情報や、イギリスの契約会社から送られてくる新発売のシングルやアルバムの曲の歌詞と訳詞を会員に送るという活動です。当時は、レコードに歌詞が付いていませんでした。ファンクラブは、会員の会費だけで、恵比寿に家を借りて事務所を構えるほどの収益があったそうです。
そのうち、前述のグループ交際の友人が一人、二人と結婚していくことに感化され、プルカダン氏も久美子さんとの結婚を意識するようになります。しかし、商社マンの父親や母親、久美子さんの一番上の兄はインドネシア人との結婚に猛反対します。1962年にスカルノ初代大統領の第三夫人となったデヴィ夫人のこともあり、母親はプルカダン氏が既婚者ではないかと疑い、興信所に頼んで調査したそうです。プルカダン氏には年の離れた兄がおり、その兄が日本人女性と結婚して京都に住んでいたことから、兄が東京に出向き、自分の弟が未婚者であることを証明しました。また、久美子さんの二番目のお兄さんが久美子さん側に立って両親を説得してくれたお陰で、1969年6月、久美子さん23歳のときにプルカダン氏と結婚しました。挙式は、幡ヶ谷にあったインドネシア留学生会館(Wisma Indonesia)で、インドネシア式の挙式だったため、久美子さんは、クバヤやサロンなどをインドネシア人と結婚された先輩の奥様方から借りたそうです。
ジャカルタでの仕事
翌1970年2月に初めてジャカルタに降り立った久美子さんは、既に妊娠しており、1970年に長男を出産します。家にじっとしていられない久美子さんは、その翌年から在インドネシア日本大使館の経済班に2年ほど勤めます。
ご主人の知り合いで、ボトル飲料水をインドネシアで最初に販売したPT. Golden Mississippi(現在のDanone-AQUA)の創始者、Tirto Utomo氏はAQUA飲料水を日系企業に拡販したいという計画から、ご主人経由、久美子さんにオファーが持ち込まれます。オファーを受けた久美子さんは、大使館を退職して同社に勤めることになりますが、そのうち、同社Tirto社長は大阪市北区にあった『ステーキハウス ハマ』をスディルマン通りのRatu Plazaの3階にオープンすることを決め、久美子さんを同店のマネージャーに抜擢します。ステーキハウスは大変流行ったそうです。それに気を良くしたTirto社長は次に『Pand’or』という、現在もJl. Wijayaにある高級菓子店を開き、その店も久美子さんに一任します。
通算8年、Tirto氏の下で働いた後、まだ30代の久美子さんはジェトロ・ジャカルタ支店の友人から初めて通訳の依頼を受けることになります。そのとき、久美子さんはご主人のプルカダン氏が代表取締役として務める華僑財閥グループの会長に請われて、会長秘書として勤務していました。実際には、会長に会見を求める多くの日系企業の吟味役として採用されたのでした。
70~80年代は日本の大企業がこぞってジェトロや大使館を通じてインドネシアへの技術案件を持ち込んでいました。久美子さんは通訳として、2代目インドネシア共和国大統領のスハルト氏を何度も謁見することになります。久美子さん曰く、スハルト大統領は非常に立派で賢く、分かりやすく話をしてくれるので、大好きになったそうです。5代目大統領のメガワティ氏との会見にも通訳として何度か同席されました。メガワティ大統領は、大変気配りのある「おかあさん」という雰囲気の女性だったそうです。6代目大統領のユドヨノ氏とは表敬訪問が一回のみ、最近、任期を全うした7代目大統領のジョコ氏は外部の通訳者を使うのを嫌がり、専任のインドネシア人通訳者を介して会見していたそうです。ただ、細かいニュアンスを日本語に訳す能力が無い通訳者だったため、久美子さんは会見の間、ひたすらメモを取り、会見後にメモを見ながら、お客様に大統領の本意を説明したそうです。
こうして、久美子さんはインドネシアの政変と共に、歴代大統領と直に面談しています。ご自身曰く、「インドネシアの歴史の中に、まるで自分が溶け込んでいたようだ」と表現されていました。
『おしん』の監修
久美子さんは、通訳以上の歴史に残る仕事もしました。それが1986年に国営テレビTVRIで放映されたNHK連続テレビ小説の『おしん』の監修です。
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