久谷の里山で作陶する、宮内太志さんをたずねて。
「気分がいい場所」という言葉を、取材中、陶芸家・宮内太志さんは何度も口にした。ここは、砥部焼で有名な愛媛県砥部町の隣り、松山市久谷の窪野町。松山市内から車で30分足らずでたどり着く里山だ。その山あいに佇む古い一軒家で、宮内さんは今日も器をつくる。
宮内さんの器は、素朴で、あたたかい。背景にはどんな想いがあり、久谷に窯を築いたのはなぜだろう。そんな話を聞きたくて工房をたずねると、宮内さんが「よかったらどうぞ」とあたたかいお茶を淹れてくれた。「ここでお茶するのが好きで」というお気に入りの窓辺で、あれこれ話を伺った。
陶芸家のはじまり、窪野との出会い。
宮内さんは、山に囲まれた愛媛県内子町五十崎で生まれ育った。20歳を過ぎ、バイト暮らしをしていたころ、骨董品など古い器に興味を持ち始めたのが陶芸家の入口に。つてを辿って、23歳で砥部焼の窯元「笹山工房」で修行を積むことになった。
「砥部焼と言えば、白磁に青の絵付けのイメージがあると思いますが、そこは土物と言って、赤土のちょっと茶色っぽいものに白い化粧をしたり、いわゆる砥部焼とはちょっと違うことをしている窯元でした。僕はもともと、綺麗な磁器よりも、そういう素朴な土物や少し荒れた雰囲気が好きだったので、そこにお願いしに行ったんです」
勉強して4年が経ったころ、独立を意識するようになった。最初は、砥部や広田で工房を構える場所を求めて空き家を当たったが、貸してもらえる場所は見つからなかった。そんなとき出会ったのが、窪野町だった。
「このあたりは、砥部で勉強している合間に、ときどき散歩で来ていたんです。そのとき、なんか気分がいい場所だなあと感じて、見ると崩れそうな空き家があって。近所のおじさんに『あそこを使わせてもらえそうですかね』って聞いたら、『あんなところいけんけん、ここの大家に話をせえ』って教えてくれて。それでここの大家さんに相談したら、すぐに『いいよ』って話が進んだんです」
寒いけど明るい、丘のような山に包まれて。
窪野町で窯を築き、自作をはじめたのは2008年のこと。最初の3年ほどはここに住みながら作陶した。「古い家ですけど、男一人が生活できるレベルのものはあったので」。結婚してからは、ここは完全に作業場に。現在は、ここから車で20分ほど離れた砥部に奥さんと小学1年生の息子と3人で暮らす。
「本当は自宅の隣ぐらいに作業場があるのが理想かもしれませんが、どうしてもこの場所から離れがたくて。反対に、窪野に住むことも考えました。近くに何軒か空き家もあって狙ってはいたのですが、当時妻は車の免許を持っていなくて。車がないと不便だよなぁってのんびりしていたら、空き家に人が入ってしまい、僕らも砥部での暮らしが落ち着いたので、そのまま流れに身を任せて今のスタイルです」
あくせくしないのが、なんとも宮内さんらしい。それにしても、この場所のどんなところが離れがたいのだろう。
「僕はこういう崩れかけのところが落ち着くんですよ。街中とかピカピカした場所は、いいなとは思うけれど、ずっとはいられない。僕の気分に合う場所は、やっぱりここで」
「生まれ育ったのが内子の山の中だから落ち着くのもあるかもしれませんが、内子や五十崎は、山を越えて谷を越えて本当の山の中の田舎。でもここは、松山市内から大きい道1本でぐーっと上がってくる丘のような山の田舎。冬は寒くて、すぐ下にある神社を境に、下は雪が積もっていなくても上はうっすら積もっているなんてこともありますが、谷間でもないから明るいし、気分がいいんですよね。それに、一番は……」
(そう言って、窓を開ける宮内さん)
「後ろの雑木山が好きでね。そびえ立つ山じゃなくて、モコモコしたかわいらしい雰囲気が、自分の気分に合うんです。こういう場所にいるのが落ち着くんですよね」
窪野町の自然からアイデアを想起することもあるのかと問えば、「そうでもないですね」と宮内さん。「ただ、出来上がった器を見て、『あの色に似ているな』と気づくことはあります」。
自分の気分の合う場所に身を置き、頭で考えず、自然体で器をつくる、宮内さんだからこその言葉に思えた。
根詰めてやらない。山の中で気ままにつくる。
ここでは、どんなふうに仕事をしているのだろう。ルーティーンを聞いてみた。
「ルーティーンはないですが、子どもの時間に合わせるようにしています。朝、登校する子どもと一緒に家を出て、朝一でここに上がってくる。とりあえずお湯を沸かしてコーヒーを淹れて、前の日に残っていた仕事を見ながら、夕方6時前ぐらいまでこんな感じでお茶を飲んだり作業したり。すごく呑気なので、そこら辺を突っ込まれると痛いのですが(笑)。夕方になったら帰って、ご飯を食べて、風呂に入って、子どもと一緒に寝る。仕事が残っていたり窯を焚いていたりしたら、残業でまた上がることもあります。まあでも最近は、子どもと一緒に寝落ちすることも多いですけどね」
宮内さんは、小石や鉄粉、草木の根っこも混ざる土を好んで使う。そこから生まれる器は、表情豊か。暮らしに寄り添い、扱いやすいのも魅力だ。
「茶道具や骨董品など古いものにかなり影響を受けて焼き物に入ってるので、昔の精錬されすぎない、素朴な感じが好きなんです。かといって、昔の人は当時の技術で精一杯やっていたはず。だから僕も、素朴なものをダラダラ作るのではなく、自分の好きなものを目指してしっかり作りたいとは思っています。ただ、僕の“しっかり”は、ちょっと歪んでるところがあっても、小石が混ざっていても、木片がそろっていなくても、いいやと思うところがあるので、そろえて作るのが下手でもあるんですけどね。サイズなどはお客さんの注文に合わせつつ、『ここまではできますけどここから先はできません』みたいなこともあります」
積極的な営業販売はせず、SNSでの情報発信もしていない宮内さん。それでも、人づてに問い合わせがあり、店から注文が舞い込む。
「注文をもらったら、それを少し余分につくるので、余りを在庫で貯めていくのが今のスタイルです。ここには小さい電気窯が1つあるだけなので、いっぺんに作ってもたくさんは焼けず、ちょこちょこやっている感じです。納期を待ってくれるお客さんが多く、のんびりやらせてもらっています」
窯焚きは多くて週に2回、少ないと月に1回。あとは、砥部周辺の作家5人でやっている「もぐらの窯」で、春と秋の年2回、砥部にある大きな薪窯を焚いているという。
「ちょうど今月(10月)末に、もぐらの窯の窯焚きをするんです。今年は11月5日と6日に『秋の砥部焼まつり』があるので。お皿なんてみんないっぱい家にあるだろうに、毎年本当にたくさんの人が集まってくれて、ありがたいイベントです」
今さらながら、ふと気になって聞いてみた。宮内さんの器は砥部焼ですか?
「おっと、砥部焼論争ですね(笑)。何が砥部焼かと言われると、僕もわからんのですよ。基準はなく、あいまいで。砥部の産地でやっている人は砥部焼って言いやすいですし、砥部焼協同組合に入っていれば砥部焼だし。僕は砥部からちょっと離れた場所でやっていて、でも、土は砥部の磁器土を使っています。たまに、砥部じゃない土を使うこともあります。だから、僕の場合は素材で分けて『この土は砥部のじゃないので砥部焼じゃないです』というような言い方をしています」
砥部の磁器土を何パーセント使ってなければ、砥部焼とは言えないというルールもないため、砥部焼作家と紹介されることも多いという。
「別に砥部焼作家というイメージで進めているわけじゃなくて、ただ器を作っているというだけなんですけどね」
「ちなみに、この土は、砥部の柿畑で『土が出たよ』と言うのでもらってきたものです。そういう土に、もう少し砂っぽくしたいなというときは、ここの裏の山で掘ってきた砂っぽい土を混ぜたりしています」
今では諦めたが、最初、茶器が好みのときは、全部自分で堀った土でやりたいと思った時期もあったそう。
「それをやり出すと、もっと作品という感じで根詰めてやる作家にならないと駄目だと思ったんです。でも僕は、もっと日常よりというか、気軽にたくさん良いものを作りたい。“器を作って完成”ではなくて、“器を使ってもらっている状態で完成”という感じがいい。そう思って今は、砥部の磁器土を使って、たまに自分で掘った土を使って遊んでいます」
昔ながらの人と自然の循環ができる場所。
「気軽にたくさん良いものを作りたい」とはいえ、釉薬(土の表面を覆うガラス質の膜)の原料には、草木灰を自作している。草木を焼いたり、薪ストーブの灰を使ったり。『灰にすると量がちょっとしか取れない』と漏らせば、宮内さんの器を使うイタリアンレストランがピザ窯で薪を燃やした灰をくれたり、器を扱うお店の紹介で木蝋生産会社がハゼの実の灰をくれたりと、いろいろな人が灰を分けてくれるようになった。灰はそのまま使えるわけではない。水にさらしてアクを抜き、ふるいに落として、天日干しすることで、釉薬の原料として使うことができる。時間も手間もかかる。
「別に草木灰を使ってるからどうこうはないですけど、草木灰を使って焼き物を作るって、昔からある生活リズムで好きなんですよね。昔は、脱穀が終わった藁灰で焼き物を作ったり、台所でも薪を使ってご飯を作ってその灰を肥料として畑に撒いたりしていました。そういう昔からの生活のサイクルは、僕が残したかったスタイルのひとつなんです。灰は買うこともできますけど、灰がないと言いながらもこうやって何かしら手に入るのが田舎のいいところですよね。そういう灰を使ったほうが自分の気分に合うので、そこはちょっと頑張ってやろうと思っています」
「今年は藁灰も作りました。最近は、機械で稲刈りをすると同時に藁を細かく切り刻んで田んぼにばらまくスタイルが多いなか、近所の若い子らが稲木(昔ながらの稲を干すスタイル)をやるっていうので、藁を分けてほしいと頼んで田んぼで焼かせてもらったんです。相当煙が出るから住宅街ではできないんですが、松山市内でもここならできる。そういう昔ながらの生活サイクルができるのは、久谷の良さでしょうね」
人を受け入れる地域の明るさと、風土と。
久谷の良さを、宮内さんはもうひとつ語った。
「僕はいわゆるよそ者ですけど、あんまり違和感なくこの地域に入れてもらえました。こないだも下の空き家にポンと人が入ったし、奥久谷でも若い子が空き家を借りて焼き物をはじめました。自分の家をいきなり見ず知らずの人に貸すってしんどいはずなのに、ここではスッと借りられるんです。それは、僕より10年も20年も前から、焼き物屋さんに限らずいろいろな人たちがこの地に惹かれて移り住み、いい雰囲気を作ってくれたからだと思うんです。ここには、人を受け入れる風土というか、人の良さとか地域の明るさみたいなものがあるのかもしれませんね」
そんな明るい地域で作陶する宮内さん。これから取り組みたいことは?
「うーん、変わらないかな。始めたころはこの広さで十分だと思っていた作業場も、だいぶ手狭になってきました。もっと作業場所を広げたいとか、窯を大きくしたいとかもありますが、今が良くて。窯を大きくしたいなんて、たぶん3、4年前から言っています。ちゃんと仕事している人には『しっかり稼げ』って言われるんですけど、できないんですよね。きっとこれからも、気ままに細々とやっていきます」
最後に、「久谷で好きなところは?」と尋ねると、「ここです」ときっぱり。「久谷の中でも山手の窪野は見晴らしもいいし、西が開けているので夕方が長いんですよ。本当に気分がいい場所なんです。あとは、どこだろう……。ああ、そういえば、毎年彼岸花の季節は、この上で彼岸花が群生して咲きますよ。見ごろの1週間ほどは、車が増えてこの辺も渋滞になるほど。僕は行ったことないんですけどね。裏に咲く彼岸花で十分だから」
多くを求めず、飾らず、自然体の宮内さんが、そんなふうにこの場所の良さを語ると、多くの人が作業場をたずねて、宮内さんのものづくりに影響しないか心配になる。
「大丈夫ですよ。基本ここはウェルカムですから。ただ、作業場に来てもらうには構わないし、販売もできますけど、在庫は少ししかないから、物足りなくてもよければですが」
そう言って、宮内さんは優しくほほ笑んだ。
謙虚でおおらかな生き方がじんわり伝わる、宮内さんの器は、松山市内なら道後の歩音、柳井町のうつわ屋独歩、松山ロープウェー商店街のROSA、南堀端の日々で取り扱っている。
工房を訪ねれば、器を手にすれば、きっと誰もが好きになるはず。
包み込むような久谷が、宮内さんの器が、あなたとの出会いを待っている。
【陶芸家・宮内太志】
1980年愛媛県内子町生まれ。砥部の工房で作陶を学び、独立。現在は、松山市窪野町の里山で制作している。小石、鉄粉、木片などが混ざる少し荒い土を好んで使用し、釉のムラなども特徴。素朴であたたかい作品が魅力。
住所:愛媛県松山市窪野町1245-1
企画展情報:
▪️日々15周年記念イベント「日々暮らしの道具展」
2022年11月26日(土)~12月11日(日)11時~18時(最終日は17時まで)
会期中無休
日々(愛媛県松山市南堀端町4-8 ハマダビル1F南)
▪️「モグラの窯」
2022年12月9日(金)〜12月13日(火) 10時〜17時(最終日は15時まで)
大洲市今岡邸(大洲市大洲282)