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子育て回顧録その3 分けることと分けないこと

もうすぐ親元を離れる息子 陽(はる)に、親としてできることは、あまりない。
だけど、愛して育てた記録は私にしか書けないはず。
そう思い、時々書いている子育て回顧録。時系列バラバラですが、今回はその3本目。

いつか、陽がおじさんになったら、私がこの世からいなくなったら、読んで欲しい。


特別支援教育とインクルーシブ。分けることと分けないこと、どちらがいいのか。
陽を育てるなかで何度も考え、悩んだことの一つ。

インクルーシブが望ましいのは分かる。「地域共生社会」とか「核兵器根絶」と同じように、今すぐは難しいが、将来目指すべき方向性。
だが、この理想は、しばしば自分を疑わせる原因になった。

教育委員をしていたあるとき、教育長に突然たずねられた。「インクルーシブって、本当に実現すると思う?」
無理だよねというニュアンスなら、笑って誤魔化したが、意見を聴かせてというニュアンスだったので、答えてみようと思った。
「今はまだ、このまちでは難しいと思います。特別支援教育を適切に行える教員が3割くらいになれば、可能性がみえてくるんじゃないかと。」

インクルーシブはなかなか難しいけど、諦めたくない。逆行するようだが、まず特別支援教育の充実を図れば、理想に近づける。
質問に答えたことで、もやもやとしていた自分の考えの輪郭がみえた。

いくら愛情があっても、知識がないため、子どもを傷つけてしまう教員は、地域にまだいた。
知識のなさと行動力は、被害の大きさに比例した。

同僚に一目置かれている教員が特別支援コーディネーターになる、または特別支援学級の担任になることで、学校全体の力が上がるのではないか、と提案もした。
教育長は、肯定も否定もせず、笑顔で「なるほど」と言った。

教育委員会の若手職員に相談されたこともあった。
「何年も前から発達障害者支援法はあって、インクルーシブが必要だと言われているのに、どうして学校は特別支援学級をたくさん設置しようとするんですか?いつまで加配を求めるんでしょう。」
彼の兄は、大人になってから発達障害と診断された。学生の頃も、働いてからも、人間関係で苦労している様子は知っていた。

「私も悩んでる。大人になった陽に『どうして特別支援学級を選んだんだ』って責められる日が来るかもしれない。だけど、よく考えて選んだつもりだし、特別支援学級に所属して、療育を受けたことで、味方は増えたよ。」と、答えにならない答えをした。

教育長とのやりとりも伝えた。
「皆んな悩んでるんすね。」と彼は言い、「こういう若手が教育委員会にいて、心強いよ。」と私は言った。

私と同じ考えの人ばかりではなく、彼のような人がいるから、特別支援教育の充実に加速がつく。それに、現状に疑問を持ち、自分ごととして取り組もうとしていること、対話を求めていることが嬉しかった。

陽は1年生の1学期、親学級を離れたがらず特別支援学級の担任を戸惑わせた。
先生から連絡帳で相談された私は、「本人のしたいようにさせてやってください。そのうち、特別支援学級で過ごす時間が増える筈です。」と返答した。
一ヶ月もしないうちに、そうなった。
分けられることに戸惑った陽は、分けられたことで安心を確保されたことに気づいた。

「大人になってから一緒になるために、小さいうちは分ける。」という専門家の言葉をfacebookでみつけたときも嬉しかった。
インクルーシブという理想に逆行しているのではないかという不安や後ろめたさは、なかなか消えなかった。

陽は特性を認められ、大切にサポートされた。他の子どもには不思議な言動や、わがままに思える行動の理由を、教員は丁寧に他の子どもたちに通訳してくれた。

安心感がないと、人は力を発揮できない。避けられたり、責められたり、虐げられると、勇気をくじかれ、人を疑い、攻撃的になる。
引きこもりや発達障害由来の精神障害、自殺、犯罪は、マイノリティへの無理解からも生まれる。

私は陽を守るため、特別支援学級を選択した。普通学級でも陽の笑顔が守られるなら、その方がいい。だが、平成25年の日本やあの地域では難しかった。

陽は、マイペースで気が利かないけど、優しい子に育った。それは、家庭だけでなく、学校や地域で、大切にされたからだ。
小中学校では特別支援学級に所属し、親学級の授業を途中で抜けることが多かったけど、私立高校に入学すると、ほとんど休まず、授業に出られるようになった。
facebookでみつけた専門家の言ったとおりに、陽は成長した。

無理にインクルーシブにするのは、色んな国の人をルールや準備なしに同じマンションに住まわせるようなものだ。
ルールや準備は、理解や歩み寄りとも言い換えられる。

特別支援教育を受けることは、マイノリティ側の歩み寄り。合理的配慮は、マジョリティ側の歩み寄り。その二つがあって、ルールがあって、それでも起こる日々のいざこざを一つ一つ解消した先に、インクルーシブは実現するのではないか。

おじさんになった陽は、どんなふうに過ごしているだろう。自分や周りを大切にできているだろうか。
インクルーシブは当たり前のことになっていて、そんな言葉は残っていないのだろうか。

分けられなくても、診断を受けていなくても、子ども達がありのままを認められて、幸せに成長できる成熟した社会や世界なら、様々なマイノリティも幸せに暮らしているのではないだろうか。

LGBTQや被差別部落、在日外国人、少数民族、性犯罪被害者、発達障害。そんな言葉も不要になる世界。
女性に参政権がない時代もあったのだから、そんな世界も夢じゃないのか。

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