「オンラインで学んでみて」耕さない その2
前述のはこちらをご覧ください
さて、そんなわけで「オンライン」が始まったわけですがこの塾というかサロンというかその「学び」を教えてくれる人
通称「いがさん」と私は大学の時から呼んでいますが
付き合い自体は長いのです。
なので関係性としては「それとなくわかる」とか「ああ、こういうことですか」という感覚が多分「しみついてる」嫌な臭いみたいに(笑)
この人をある程度知っていると「何かあるんじゃない?」という「疑念」が常に頭の中を回ってきています
でも、別に気を使うとかそんなことをする人ではないです
アイスとかよく食べてますし
で、半年くらいその「耕さない」という農に触れてきた感想としては
「なんだ、結構単純で簡単なんじゃん」というのが一番大きいです。
「なんだ!何十年もかけてやってきている人に向かって簡単じゃんとか舐めてんのか!」
とか思われそうですが
逆ですね
「きちんと見なければいけない部分さえわかっていれば、あとは流れに乗るのでほっとけばいい」
ということです。
「わかっているからこそ、やらなくていいこと」
「わかってないからこそ、知らなければならないこと」
そのエッセンスは「非常にシンプル」にまとまっているものになっています。
「そもそもの田んぼの収穫量を知ったほうがいい」
ということと
「そんなにお米いらないよ」
ということです。
「無理すると続かないし、また採れなくなるが始まるから」
この中の言葉の「収穫量」「無理」などの「言葉」は
いつも使っている「額面上」の言葉ではないです。
その中身を教えてくれたというよりか「仕組みを説明してくれた」に近い形で私に入れて来ました。
たとえ話をするとわかりやすいかもしれません。
2002年に「ゆとり教育」そして「個人を伸ばす」ということがかなり注目されて「教育」に対して求められたことが変わったことがあります。
ちなみに私はいわゆる「ゆとり世代」になります。31歳ですからね。
土日を休みにして、詰め込み教育を変えて授業にゆとりを出すことをしました。
それまで「暗記中心」の詰め込み教育から「自分自身で考える力を養う」教育へ転換されたのがこの時期です。
でも、結果としては・・・
「会社」は「個性」を求めていましたか?
自分色を出すと拒絶されませんでしたか?
効率を上げようと考えて効率が上がると時間が減って給与が下がりませんでしたか?
教育では個性が求められて、社会ではそうではないってことです
で、ここでもっとも重要なのは
「いい、わるい」じゃないってことです
例えばそういう教育を推し進めた「政治」を批判したり
受け入れられない「社会」を批判したりだと
「考えなくなる」ことが始まります
そうじゃなくて、そうじゃなくて
「どんなにいいことでも、素晴らしい理論でも、その物事自体がその環境に適合しているかどうか?」を見なければ意味ないよってことです
農だと「無農薬・無肥料」がいいと思われますけど
「がりがりにやせ細った土地で、栄養もなく、ただ言葉の額面上だけの無農薬、無肥料をしてしまうと、目的に合わせたものが出来なくなる」
「だったら最初から農薬や肥料を入れたほうがいい」って話になるわけです
「張り付けられた理論武装・考え方」では「すぐにばれる」し「続かない」
そうじゃなくて
とかくいがさんは
「感じる・見る・聞く・触る」という
「観察する」を「気づかせる」ことをやっていました。
次回に続きますね