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自分のために生きるということ

完璧主義を発症してしまい、
だいぶ久しぶりの投稿になります。

反省です。


前回の記事の続き(後編)になります。

前回のおさらい

前回の記事で、わたしは、
「人のために」の類の言葉が嫌いだ、という話をしました。

それはなぜかと言えば、

詳しくは、
前編に書いていますが、

人の本性からして、
わたしたちは、自然と、

「誰かのために何かをしたい」
「誰かのために生きたい」と思うものだからです。

だから本来、

「人のために生きろ」
「Giveしろ」

こんな風に、
誰かに教え諭されたり、
強要されたりすることじゃないと思うんです。

情けは人の為ならず?


「情けは人の為ならず」
という、有名すぎることわざがありますよね。

このことわざの、
本当の意味をご存知でしょうか?

実は、言葉通りの意味ではありません。

人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる、ということ。誤って、親切にするのはその人のためにならないの意に用いることがある。

goo辞書より

要するに、

人の為にしたことは、
巡り巡って自分のもとに返ってくる

という意味です。

この言葉から得られる
教訓はなんでしょうか?

やがては自分のためになるのだから、
誰かのために尽くそう。

ケチくさくならず、気前よく与えよう

自分のためではなく
相手のために何ができるのかを考えよう


こんな感じでしょうか?

実は、わたしは元々、

この言葉があまり好きではありませんでした。

なぜなら、

人に親切にすれば、自分に返ってくるから、
「人のために」何かをしましょうね。

という、説教じみた、
功利的なニュアンスに、
当時、斜に構えていたわたしは、
反発を感じたからです。

打算的で、自己犠牲的なニュアンスが
好きになれなかったんです。

でも、あるアニメで、
「情けは人の為ならず」を体現しているキャラクターを見て、
わたしの考え方が変わりました。

それが、
「鬼滅の刃」です。

引用:C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable


「刀鍛冶の里編」の第三話にて、

主人公の「炭治郎」(右)と、
「無一郎」(左)が、こんな会話をしています。

無一郎:
「なんでそんなに人をかまうの?」
「君には君のやるべきことがあるんじゃないの?」

炭治郎:
「人のためにすることは結局、
巡り巡って自分のためにもなっているものだし…(以下省略)」

この炭治郎のセリフは、
「情けは人の為ならず」そのものなのですが、

そこには、
一切の打算的なニュアンスを感じません。

でも無一郎には、その意味が分からない。

無一郎には、
リターンが見込めないのに、
なぜ人のために何かをしようと思うのかが、分からないんです。

一方で、炭治郎は、
人に情けをかければ、
いつか自分に返ってくると思って、
人を助けるわけじゃない。

ただ純粋に、
目の前の困っている人を助けたいと思う。


炭治郎は、
そういう純粋な心を持っている。

一方で、無一郎は、
(これから変わっていくのですが)

この時点では、
リターンが見込めないのに、
なぜ人の為に何かをするのかが、分からない。

無一郎には、
「人のために」という利他の心がまだない、
ということです。

それはなぜかと言えば、

自分のことで精一杯だからです。

自分のことで精一杯の人は、
「人のために」なんて、
とても考えられないわけです。

「情けは人の為ならず」の真意

結局、何が言いたいかのかと言えば、

「情けは人の為ならず」の本当の意味は、

「巡り巡って自分のもとに返ってくるから、人に良い行いをしなさい」ではないということ。

そうじゃなく、

人に良い行いをできる心の豊かさや、
心の余裕を持っていれば、

自然と、人のために何かをしたいと思える。


そうして、自然に利他の精神でしたことは、
巡り巡って自分のためになる。

でもそれは、あくまで結果にすぎず、
意図したわけじゃない。



こういうことではないでしょうか。


自分が満たされていない人は、
人を満たそうなんて思えない。

極端な話、
自分が食べていくのに精いっぱいな人が、

人に食事をおごったり、
募金をすることなんて、考えられない。

それをしてしまうなら、それは自己犠牲です。

わたしたちは、
自分が満たされて、溢れた分だけ、
他者を満たすことができる。


逆に言えば、
自分を満たさなければ、
人を満たすことはできない。




ご拝読、ありがとうございました。

また次回、お会いしましょう。
あなたに幸あれ。





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