エイプリルフールは未だに
少し前の話。
エイプリルフールという世界規模の嘘の祭典があった。
これだけ世界規模なのに、これだけお祭りにならない事象も珍しいと思う。
ほとんどの人が信仰していないし、みんな教義も知らないであろうゾロアスター教の謝肉祭(=ハロウィン)との差がすごい。
( ハロウィンやクリスマスは資本主義的な意味づけがされているから、ティピカルな意味での祝祭ではないとツッコミを入れたくなっている君、その指摘はダサいぞ。本質はそこじゃない。そう、君だよ。そこの君。)
なぜ今更エイプリルフールなんて持ち出しているのか。
明らかに旬な時期は過ぎたし、むしろ、次のエイプリルフールまで最も遠いこの時期に。
僕は気が付いたんだ。
僕にとってエイプリルフールは別に特別な日ではなくて、割と日常がエイプリルフール的なのだ。
エイプリルフールはみんなが開放的に嘘をつく。
普段よくないとされているものが良いとされるのだから、それはまぁこぞって嘘をつく。
けれども、その日の嘘というのは、他の日に付く嘘とはずいぶんと性質が違う気がしている。
基本的に日常内の嘘は、自分の言葉が嘘ではないと思っている相手に対してつくものだ。
要は、騙しているわけだ。
対してエイプリルフールにつく嘘は特別だ。
その日はみんなが、みんなの言葉を疑っている。
「この言葉は嘘かも知れない」という事を念頭においての会話になる。
これは、あまり騙しているようには感じない。
世界中でこの日だけは嘘がつけるのは、世界中で「嘘をついていい日」という共通概念を作り上げており、それに従う限り、人を騙さずに嘘がつけるからだと考える。
エイプリルフールであっても、人を騙すことは悪であり、騙すということには概ね「悪意」が含意される。
そこでは「嘘」と「欺瞞」は明確に区別される。
エイプリルフールに詐欺をして捕まっても、「エイプリルフールなんで」という言い訳は効かないわけだ。
法の範囲外の嘘という点でも、悪意を含意しているという点でもエイプリルフールにおける共通概念の外にある行為となる。
ここで言いたいのは、エイプリルフールの本質を担っているのは、「嘘をついている主体者」ではなく、「嘘を前提とするコンセンサス」ではないかという事だ。
なんとなく僕の言いたいことがわかっていただけたかも知れない。
一体僕のいう「エイプリルフール的な日常」とはどういう意味か。
それは、いろいろな事を疑っている日々の事だ。
最近ポピュラーな言葉に訳すと、「クリティカルシンキング(批判的思考)」と言ってもいいかも知れない。
より正確な言い方をしようとすると、クリティカルシンキングとは少し意を異にするが、まぁいいだろう。
日々、様々な情報を摂取するたびに、それに対して肯定的な立場と、否定的な立場の両方に立って思考してみることは大切だ。
情報には指向性(=流れ)があるから、社会が「このトピックはこちらが正義です。」という流れを持った情報の出し方をしてくると、基本的にはそれに流されてしまう。
それは少し危険だ。
< その正義は誰が作ったのか >
< マイノリティは無視されていないか >
< そもそも正義が存在する問いなのか >
流れにただ身を任せてしまうと、これらの問いのフィルターを介さないまま、僕らはそれを信じてしまう。
なので、流れがあるならそれとは反対の流れを自分なりに想像してみる。
これは「リフレーミング」なんても言ったりするらしい。たぶん大切。
できることなら、客観的な立場を取れると良い。
いわゆる中道になれということではなくて、一旦その流れの川からは出てみて、堤防に上がって流れを見てみる。
基本的な流れはあっても、ところどころ渦を巻いていたり、場合によっては逆流しているかも知れない。
自分がいたところは、その中の本当に一部の流れが激しい場所だったかも知れない。あるいは、逆流していたかも。
これが「考える」ということだと思う。
ヘリに乗ってさらに俯瞰して、上流から下流まで川全体を見渡せる場所まで行ければ、やっと初めて見えてくる正義があるかも知れない。
これは自分の頭だけで考えていても辿り着けない。
こういう思考をするために学問がある。
これが「学ぶ」ということだと思う。
正義がどちら側にあるのかはこの段階では重要ではない。
大切なのはここでいう正義とは何で、それは誰が決めているのかを知り、考えることだ。
いつのまにか、自然と物事を批判的にみるようになった。
それは常にネガティブな側面を見ているのではなくて、多角的に見て、できれば俯瞰するということだ。
だから、あらゆる情報に対して、
「これは嘘ではないか」
「ポジティブな側面ばかりを見せていないか」
「本当にそれはネガティブなことなのか」
といったフィルターを通すようにしている。
ある意味で、僕にとっては毎日がエイプリルフールだ。
世界は疑わないといけないから。
こういう考え方をするようになって、ある種の事柄に対して、自分の立場を表明する時の歯切れは悪くなった。
案外、完全に悪な物事は少ないし、完全に正義というのも少ない。
特に「完全に正義」なんて存在しないのではと思えてくる。
それはあまりにも哲学的すぎる問いだ。
ソクラテス、ニーチェ、ベンサム、フーコーなんかを参照しなければいけなくなる。
哲学ガチ勢が怖いので、ここでは踏み込まない。
ウクライナ情勢をめぐって、この情報の指向性に対するアンテナはとても過敏に反応した。
あまりにも世論が一方的過ぎた。
戦争はあまりにも馬鹿げているが、何も仕掛けた側が全て悪いわけではないし、当事者だけに問題があるとも限らない。
世界がそんなに単純なわけがない。
多くの愚か者たちは国同士の闘いを、一般人のケンカと同一視している気がする。
彼らはワルシャワ条約機構の事を何も知らないし、それとついになっていたNATOがその後も拡大し続けて、今やロシアを完全に包囲した事を知らない。
ウクライナとロシアの戦争ではあるが、そこにはNATOとロシアの闘いという側面もあるし、冷戦の余波のようなものだって見え隠れする。
ふざけたものを書こうと思って初めの1.2文を書き始めたのに、いつしか変な方向に向かってた。
僕の文章の指向性はいつも斜めを向いている気がする。