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多様性について


「多様性」

辞書を引くと、

いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。「生物の―を保つ」

とある。


最近は随分とこのワードを聞くようになった。
初めてダイバーシティという言葉を知ったのは高校生だったと思う。7.8年前かな。

その時と今では、その言葉が意味するところが変わってきている気がする。

なんだか漠然とそんなことを思ったので、日記程度に少しだけ。


多くの生物は、その多様性が豊かであればある程生存のリスク分散が可能になり、長い年月の中で種が経験する絶滅リスクを避けられ、今日まで命を繋いできている。

生物多様性という観点では明らかに多様であるほうが有利だ。

会社という単位で捉え直すとどうだろう。

いろんな意見を持った人を参画させる事で、多角的な判断を下すことができる。思いもよらない成果を得られるかもしれない。色々な人を受け入れ、社会的なセーフティネットの役割や国際化を促進することも、世間的なイメージ戦略としても機能する。

良いこと尽くめではないか。

なんてはいかない。

実際には母語が違う人に何かを教えるのは、共通言語を持つ人にするそれよりも遥かにコストがかかる。
育ってきた文化の違えば、ある人の善意はある人にとって非常識かもしれない。
何かしらのハンディキャップを抱えた人を受け入れるにはそれなりの余裕が必要で、転じて、余裕がなくなってしまうとそれらの人々へのケアが立ち行かなくなるかもしれない。

主語は会社じゃなくて学校でも良い。町内会なんかでも良い。

多様性は常にリスクとコストを孕んでいる事を忘れてはいけない。

生物だって実はそうだ。
カマキリは多様性による自然淘汰の中で、オスはメスとの交尾後にメスに食べられてしまう様に進化を遂げた。これを人間に当てはめてみてほしい。どう考えても犯罪になる。


我々が「常識」と読んでいるキリスト教的価値観に多様性を当てはめると、小綺麗な多様性が定義され、ある種それを押し付けられている感がある。
あたかも多様であることがいかなる場合、いかなる環境においても重要で、多様性の欠如したものは不完全であるかのように。


その多様性はリスク分散のためなのか、アイデアを広げるためなのか、さまざまな意見を幅広く集めるためなのか、或いは多様性を手に入れるためなのか。


多様性の何たるかを理解していない人々が叫んでいる多様性は多様性の獲得を目的としてしまっている。
勉強のための勉強、仕事のための仕事、みたいなものだ。

多様性とはあくまで手段だ。

物事には目的とそのための手段があり、それが逆転し、手段が目的になってしまうとおかしなことになる。

この場合、多様性という手段が目的にすり替わり、多様性を手に入れるために多様性を叫んでいる。
あたかも、多様性を手に入れれば今ある諸問題がたちまち解決していくかのように。

そのリスクやコストに気を使うこともせずに。

そうすることがかえって誰かにとって不都合なことになることを考慮していない。

そして、盲目的に多様性を追い求め、それを正義と信じて疑わずにいると、「多様性を認めない人」を排除することに繋がってしまう。このケースを最近よく目にする。
多様性とは認めるものであって、強制すべきものではない。
「多様性を認めない人」を認めることもひとつの大切な多様性だ。

つまり、「多様性の強制」は自己矛盾しているのだ。


僕は社会の多様性は豊かな方が望ましいと思っている。ただ、それをあまりに急に実行しようとすると、その負荷はかなり強く社会に現れる。
移民政策がうまくいかないのはここに原因があると思う。

緩やかに、社会が対応できる速度で多様な社会になっていってほしい。

多様性は叫ぶことで手に入る類のものではなくて、他者を認めるおおらかさを持つことによってのみ、適切に手に入れることが出来るのだと思う。

個人的にはそうは思うけど、そうじゃない考えが間違っているとも思わない。

多様性を手に入れることによって、辛い思いをする人が多くいるのなら、それほど多様じゃなくて良いのかもしれないし。


こんなんを書いてる最中に電車で隣に座ったサラリーマンが多様性について議論している。

なんてタイムリーな。


「やっぱりこれからの時代は多様性だと思うんすよ!」

だそうだ。




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