【アジア横断&中東縦断の旅 2004】 第21話 シリア・レバノン
2004年12月20日 旅立ちから、現在 352 日目
念願のアジア横断を達成した後、イスタンブールで今までの旅の疲れを癒した。
この町は久々の大都会だった。
お金を出せばいくらでも贅沢ができたし、欲しいものがあれば何でも揃った。
だが今までの国に比べ物価は格段に上がった。
約1年の長旅を経て所持金はかなり少なくなっていたので、宿で自炊をしながら出費を極力抑えていたが、それでもいよいよ財布の底が見えてきてしまった。
私はこの後のルートを考えた。
このままギリシャに入り、イタリア、フランスと西に進み、ポルトガルまで行ってヨーロッパを横断するか。
それともここから南下してシリアに入り、エジプトまで行って中東を縦断するか。
ヨーロッパは物価が今までとは比較にならない程高い。そして年を取った後でもまだ行きやすい。
一方、中東は物価がアジア同様に安い。そして情勢が不安定なことが多くいつ行けなくなるかわからないが、今ならば比較的安定しているので旅が可能だ。
その他様々な要因を含めて悩んだ末、私は中東縦断ルートを選択した。
そしてそれを達成したらこの旅を終えることにした。
旅の終わりに私は何を見るのだろう。
とりあえず今は残り少なくなった旅を大切に過ごそうと思った。
乗り合いバスでトルコからシリアへ入国した。
世界文化遺産の町アレッポや、ハマ、パルミラなどの名所を通って、シリアの首都ダマスカスにたどり着いた。
中東はイスラム一色の世界なのかと思っていたが、町中にはイスラム教のモスクと共に、キリスト教の教会も多くあり、一定数のキリスト教徒も普通に共存していた。
確かに聖書の舞台は中東一帯に及ぶ。
その物語の中に登場する地名のいくつかが、ここダマスカスに今もなお残っていた。
数千年前から存在する世界最古の都市と言われるこの町の懐の広さを改めて実感するとともに、自分の中でまたひとつ歴史が繋がったように思えた。
シリアからレバノンに向かった。
レバノンの首都ベイルートはかつて中東のパリと呼ばれるほど美しい町であったが、長い内戦の末、町は一時廃墟と化した。
現在は治安も安定して復興も進んでいたが、それでも少し裏通りへ入るだけで弾痕が残ったままの建物が放置されていて、かつてここが戦場だった頃の凄惨さを無言のまま物語っていた。
町を少し歩くと海に出た。
この海は地中海だった。
この海の先にヨーロッパがあり、アフリカがあり、そしていままで通ってきた国々にも遠くでつながっているのだ。
しばらく海を眺めながら、今までの旅を振り返り、そしてあと数ヵ月後に帰る日本のことを思った。
シリアに戻った後、イスラエル国境に接するゴラン高原にあるクネイトラという町に行った。
イスラエル軍の空爆で廃墟になったこの町では、UNDOF(国連兵力引き離し監視軍)がPKO活動を行っていた。
廃墟の町を歩いていたら日の丸を付けた軍人に出会った。
声をかけたら日本の自衛隊員だった。
こんな所で日本人に会うなんて思ってもいなかったので互いに驚いたが、日本が自衛隊海外派遣でこのPKOに参加(治安悪化のため2012年に撤退)していたことを私はこの時初めて知った。
この旅の中で、このように実際に現地で国際貢献をしている自衛隊や青年海外協力隊やNGOの人たちなどに何人も出会ったことで、いつか自分も海外で何か人の役に立つことをしてみたいと思うようになっていった。
ダマスカスで年越しを迎えた。
トルコの輸入食材屋で入手し、年越し用に温存しておいた日本製のそばを茹で、町の市場で買ってきたネギと卵を乗せ、宿にいた旅人達に年越しそばとして振る舞い、皆で新年を祝った。
2004年1月4日から始めた旅はあっという間に時間が流れた。
そして旅立ちからちょうど丸1年経った2005年1月4日に、ダマスカスにある世界最古のモスクであるウマイヤドモスクに初詣をして残りの旅の無事を願った。
シリアには陽気で親切な人が多くいた。
今まで旅した国の中で一番親切を受けた国はシリアだったと言う旅人は多いが、私も同感だった。
現在、シリアは先の見えない泥沼の内戦のため入国できなくなってしまった。
この美しく素敵な国が今日のような悲惨な状況になってしまうなど当時は思いもしなかった。
シリア・中東の一日も早い平和と安定を心から願う。
悔しいけれども今の私にできることはそれぐらいしかない。
続く ↓