【美術展2024#13】私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために@森美術館
会期:2023年10月18日(水)~2024年3月31日(日)
森美術館開館20周年記念の展覧会。
現代美術を用いて環境や人類といった地球規模の問題を問う。
少々これ見よがしで風呂敷広げすぎな感もしたが20周年記念だし企業メッセージとしてはこれくらいストレートにぶち上げた方がいいのかもしれない。
さて、都心の超一等地のタワマンビルの最上階で行われるエコロジーがテーマの美術展。
我々は何を問われているのか。
ニナ・カネル
会場に足を踏み入れてすぐに出会う作品。
北海道から輸送したという大量のホタテの貝殻を踏みながら歩く。
貝が擦れ軋み割れる音と足に伝わってくるわずかな振動が、今大量の貝殻を(大量の生命の残骸を)踏んでいるのだということを否応なく認知させる。
貝殻は展覧会終了後建材用漆喰の原料として再利用されるという。
一人が踏んだだけではわずかしか砕けないが会期中に大勢の鑑賞者が踏み、会期が終わる頃にはもう少し細かく砕けてその原料に近づいているのだろうか。
だがホタテ漆喰にはデメリットもあるようだ。
・塗りやすいようにビニール系接着剤で補強されるので、本来の漆喰の良さが失われていることがある
・乾くまでは白い粉がふきやすく、臭いも気になる
・通常の漆喰に比べると価格が高い
など。
今回の貝殻も、採れたそのままではなく、焼く、洗浄するという過程を経てこの場に輸送し、さらに会期後は輸送し直すということなので、大量のエネルギーや人手を要し、エコロジーという観点で見るとそれほどエコロジカルではなさそうだ。
作家本人がアーティストトークで、
「私はエコロジカルな作品を作ると意識したことはありません」(21:53あたり)
と言っているからやはりエコロジーを主題にした作品ではないのだろう。
ただ、
「素材や物質への敬意を持ち、深い関わりを持ちたい」
「不安定なヒエラルキーのバランスを崩す」
「エコロジカルな対話であることは事実だと思う」
などのワードから、何らかの接点が見出せれば間接的にエコロジーという文脈につながることもまた事実か。
谷口 雅邦
生け花作家の作品が大都会を見下ろす。
花はみんな好きだ。花束をもらって嫌な人はいないだろう。
生け花だってもちろん美しい。
だがエコロジーという観点で生け花を考えるなら、人間のエゴと美意識によって自然界の花や植物の命を刈り取り、本来の生態系とは違う見せ方や組み合わせを行う、人間の人間による人間のための娯楽なのではないか。
とうもろこしの根や実を土や粘土で固めた作品と都会の風景とのコントラストが、手塚治虫の「火の鳥・復活編」に登場する溶鉱炉を前にしたロビタの姿に重なって見えた。
モニラ・アルカディリ
吊るされた真珠に近づき真下に立つと何かぶつぶつと聞こえてくる。
真珠の恨み言とのこと。
養殖真珠は真珠貝に人工的に核を入れて育てるというが、人間は真珠に美を見出し欲する。
これも人間の美意識や所有欲を満たすために行われる人間の人間による人間のための娯楽か。
確かに真珠にも言い分はあるだろう。
古今東西縦横無尽に選出される作品群は、単純なエコロジー至上主義ではなく、また地球規模でどうのこうのというよりも、繊細で超個人的な視点に収束している作品が多かったように感じた。
中にはそもそもテーマがエコロジーとは関係無いのでは、無理矢理エコロジーの文脈上に位置付けているのでは、などと思う作品もあった。
あえてそういうキュレーションをしているのだろう。
人間にとって美は必要不可欠だ。
私たちは人間はどのように美を発見し、作り出し、感じ、考えるのか。
そしてその美を通してどのように人間以外の生態系や環境、そして地球という惑星そのものに対峙するのか。
それにはまず私たち一人ひとりが自分自身と向き合い、「私」として精一杯生きること。
そして世界を俯瞰して一見関係なさそうな個々それぞれの行いに意味や価値を見出し、美を通してそれらの回路をつなげることで新しい視点やネットワークを生みだすこと。
それがやがて大きな流れにつながる。
「私」だけではない。「私たち」で実行するのだ。
そんなメッセージが込められているのではと考えた。
森美術館のフィルターを通し、会場全体でメッセージを発信する。
私の受け取り方が正しいのかはわからないが色々と考えさせられた。
やっぱり企画展とはこういうものだよな。
新たにオープンした麻布台ヒルズギャラリーのこけら落としのオラファー・エリアソン展と合わせて森美術館の企画は毎回すごい。
しかしもろもろつい最近のことのように感じるが10年、20年だのと時の流れが早すぎる。
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