【アジア横断&中東縦断の旅 2004】 第19話 イラン
2004年11月17日 旅立ちから、現在 319 日目
パキスタン西部の町クエッタから夜行バスに乗ってイラン国境を目指した。
この道は岩場の荒野のど真ん中を横切っており、アジア横断ルート屈指の過酷な道程だと聞いていたが、数年前に道が舗装されたらしく、おかげでそれほど苦痛を感じることなく明け方無事イラン国境に到着した。
これまで通ってきた国々は、どこまで行っても国境の先で中国と接していたためか、旅の中でもシナ・中国文化の強い影響力をひしひしと感じた。
しかし、アジアをここまで西に来て、ようやく中国と国境を接していない国に入国した。
そして、この国境を境に文化圏が今までとはガラリと大きく変わった気がした。
個人的な感覚では、イランはヨーロッパ文化の東端であり、アジア文化の西端であった。
歴史上ある時期には世界の中心でもあったこの地は、まさに東西文化の交差路であり、これまでこの地を往き来してきた数多くの文化が元々この地にある文化と見事に交じりあってペルシア文化圏という独自の世界を形成していた。
実際に自分の足でそこに立ち、自分の目で見て、肌で空気を感じることによって、昔、世界史の授業で頭の中に詰め込んだ記号のような地名や単語たちが、今、彩りを取り戻しパズルのピースがぴたりと収まるように自分の中で意味を持つ言葉として再構築されていく感覚が心地よかった。
バム、ヤズド、シーラーズ、ペルセポリス、エスファハーンなどの町を経由して首都のテヘランにたどり着いた。
イランは今までの国々に比べ、交通インフラ整備がしっかりとなされていたので移動が楽だった。
そして交通費が驚くほど安かったのは産油国ならではの恩恵だった。
一方、乾燥した砂漠と荒野が広がるこの国では、水は貴重で石油よりも高価だった。
イランには流暢な日本語を話す人が多くいた。
「海外で親しげに日本語で話しかけてくる現地人は金目当てのことが多いので簡単に信用するな」というのは旅人の常識だが、イランだけは別で、こちらが日本人だとわかると皆本当に親切にしてくれた。
彼らは1980~90年代に日本へ出稼ぎに来て、その時に日本語を学んだとのことだった。
皆、日本での思い出を今でも大切にしており、日本にいた時に多くの日本人にとても親切にしてもらったので日本は大好きだと言っていた。
好きな日本食を尋ねたら豚カツと言っていたのには笑ってしまったが(イスラム教では豚を食することはタブーとされている)そんな人間くさい所も彼らの魅力だった。
もちろん日本語を話せない人でも同様に皆親切で、バスターミナルの場所を尋ねただけなのにわざわざ一緒にその場所まで送ってくれ、市バスに乗ればいつの間にか誰かがバス代を払ってくれ、少し会話をしただけなのに食事をご馳走してくれ、家にまで泊めてくれて、別れ際には皆決まって「イランで旅行中に困ったことがあればいつでも連絡してください」とまで言ってくれた。
いくら日本で親切にされたとはいえ、私のようなただの通りすがりの旅人に対してまでも、なぜそこまで親切にしてくれるのかわからなかった。
イスラム教の「旅人には親切にするように」という教え以上に、彼らは純粋に親切だった。
そんな彼らのおかげで私は毎日町歩きをする度にこの国が好きになっていった。
ある日、いつものように散歩をしようと思い、町の中心地にあるモスクへ向かった。
イランのモスクは、イスラム幾何学模様と中央アジア特産のブルータイルが見事に調和していて本当に美しかった。
大通りを歩いていたらデモ隊とすれ違った。
彼らはイギリスがアメリカと共にイランへの圧力を強めていることに対して抗議を行っていた。
私はそのデモ隊を避けて裏通りを通って中心地へ向かった。
再び大通りへ出ると、そこは旧アメリカ大使館前だった。
1980年から今に続く、アメリカとの国交断絶と経済制裁の原因となった占拠事件が起きた建物だ。
その壁面には、ドクロの自由の女神と共に「Down with U.S.A.(アメリカを打倒せよ)」というプロパガンダが描かれていた。
アメリカから名指しで「悪の枢軸」と非難されたイランだが、その首都テヘランもまた、アメリカへの対抗心が渦巻いていた。
どうすればその憎みの連鎖を断ち切れるのだろう。
はたして、私のような無力で小さな人間にも、世界の平和と安定のために何かできることはあるだろうか。
私に親切にしてくれたイラン人と、目の前で怒りをあらわにしているイラン人が頭の中で交錯する。
今、私は世界の縮図の最前線に立っていた。
続く ↓
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