【アジア横断&中東縦断の旅 2004】 第9話 ミャンマー
2004年4月22日 旅立ちから、現在 110 日目
カンボジアからタイのバンコクに戻り、次はミャンマーに向かう。
ミャンマーのビザはすでに取得していたが、ここでひとつ問題があった。
今回の旅では今まで全て陸路で移動してきた。
だが、次の国ミャンマーは陸路での入国も出国も認めていなかった。
例外的に地方のいくつかの国境では陸路入国が可能な場所もあったが、それでもそこから先へ進むことができるのは国境から数km以内の範囲のみで、ミャンマー国内を自由に移動しようと思うのであれば、やはり飛行機を使って空路で首都から出入国するしかなかった。
今まで陸路にこだわってきた私としては、できればこの国も陸路で通過したかったが、それが許可されていない以上はその国のルールに従うしかない。
私はバンコクの格安航空券屋で『バンコク(タイ)発、ヤンゴン(ミャンマー)&ダッカ(バングラデシュ)経由のカルカッタ(インド)行き』というチケットを買った。
私の乗ることになった「ビーマン・バングラデシュ」というバングラデシュの国営航空会社は、とにかく運賃が安いため金の無い旅人からは絶大な人気を誇っていた。
だが、その機体は外国の航空会社からの払い下げの中古で、装備も古かった。
さらには内装の天井も外れかかっており、それを整備士がガムテープで補修していたのにはさすがに冷や汗をかいた。
機内には香辛料の香りが漂い、女性の客室乗務員は民族衣装のサリーを着ていた。
そして離陸時にはイスラム教のモスク(礼拝堂)の映像と共に旅の安全を祈る歌が流れてきた。
東南アジアからインドへ向かう土地の中で、そこに生きる人々の文化、価値観などがどう移り変わっていくのか楽しみだったが、すでに飛行機の中から異文化圏は始まっていた。
バンコクの空港を飛び立った飛行機は1時間ほどでミャンマーの首都ヤンゴン(2006年に首都移転を行い現在の首都はネピドー)に到着した。
そして簡単な入国審査を済ませた後、路線バスで市街地へ向かった。
ミャンマー国内を走るバスは長距離バスなども含めて、その多くが日本からの中古車だった。
「神奈川中央交通」、「相模鉄道」、「東急バス」などの会社名が書かれたままのバスが車体の色もそのままに走っていた。
「運賃前払い」「出入口」「運転士募集」などの日本語の表示さえも消されずに残っていた。
その日本のバスをミャンマーの右側通行ルールに合わせて無理やり車体を改造し、乗降ドアを左側から右側に付け直していた。
外国で日本のバスに乗るというのは不思議な感覚だった。
ミャンマーの女性は皆、頬に白い粉を塗っていた。
美容や日焼け防止に良いとされるその粉はタナカと呼ばれていた。
タナカは日本語由来の単語ではないのにそのまま日本語の「田中」のように聞こえて、ここでもまた不思議な感覚だった。
2004年当時、この国は軍事政権(その後2011年に民主化)で、欧米諸国はそれに対し経済制裁を行っていた。
そのような状況下で私のような旅人が個人レベルでそれを実感できたことといえば、どこの国にもあるコカ・コーラが売っていなかったり、欧米人の旅人が極端に少なかったりといったことの他に貨幣の二重レートがあった。
ミャンマー貨幣は国際的信用度が著しく低く、国外に持ち出したら両替できずに紙屑同然になってしまうと言われていた。そのため皆が外貨(USドル)を欲していた。
以前は入国時に200USドルの強制両替や外国人専用紙幣などがあったというが、私がこの国を旅した時点ではそれらはすでに撤廃されていた。
だが、それとは別に公定レートと市場レートの2つのレートが存在していた。
町中の両替屋で両替をすると1USドルが1,200Kyat(チャット)になったが、銀行にて公定レートで両替をしようとすると1USドルが6Kyatにしかならなかった。その差はなんと200倍。
実際に公定レートで両替をしようと銀行へ行っても、町中の両替屋へ行けと言われてしまう始末なので、公定レートで両替をする者など誰もおらず、市場レートが実際の価値を正しく反映した実質のレートとなっていた。
町中の両替屋の方が多少レートの良い国はいくつもあったが、私の知る限り、ここまであからさまに国と市場の貨幣価値が違う二重レートがある国は後にも先にもミャンマーだけだった。
またひとつ日本とは違う世界を垣間見ることができた。
続く ↓
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