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【美術展2024#73】歴史の未来@国立歴史民俗博物館

会期:2024年10月8日(火)~12月8日(日)

「歴史的快挙」、「前代未聞」…私たちは、過去との比較を通して現在を理解します。過去という存在は、私たちが現在を生き未来へ進むための指標となっています。
記録類や生活道具、語り継がれた記憶など、過去から伝えられたモノは、多くのことを私たちに伝えてくれます。これらを伝えようとした人びとの営みに注目すると、ありふれた過去の中から歴史的な意義を見出し、未来の人びとに継承する意思があることに気づきます。私たちも、現代に起きた大災害や「コロナ禍」という過去を記録し、未来へ伝えようとしています。情報技術(デジタルデータ)の活用はその営みを加速化させ、過去の伝え方も大きく変わろうとしています。
未来の人びとに向けて、私たちはどのような現在を伝えるのでしょうか。本展示では、歴史を伝えるさまざまな営みを紹介し、未来を見通す手がかりを考えていきます。私たちがこれから100年後、2124年に伝えたいものは、はたして何なのかを、この展示から考えてもらえると幸いです。

国立歴史民俗博物館


千葉巡り3館目の国立歴史民俗博物館のラーメン二郎マシマシのような総合展示を喰らい、
「こ、これでようやくステイツに帰れるぜ。ゲフッ」
なんてアメリカの戦争映画に出てくる任期を終えた帰国間際の主人公気分でふらふらになりながらようやく出口にたどり着いたら、その先ではとどめを刺しにくるかのように企画展示なんてやってやがる

膝から崩れ落ち天を仰ぐ私。
まさにこれ状態↓

…展示に殺される。


だが私の中のクワトロ・バジーナが言うんだ。

まだだ、まだ終わらんよ!


ええい、ままよ!行ったらあ〜!!

ということでランボーのごとく(機関銃を乱れ撃ちしながら敵陣へ凸撃するような感じで)ラーメン二郎マシマシ後の家系ラーメンを追加注文してやった。

そして、この家系ラーメンがまた美味かった。
もとい、この展示がまた面白かった


※企画展示は撮影禁止だったので以下の写真は全て公式図録から


日本に限らず、世界各地の歴史は先人たちの伝聞の積み重ねのストーリーの部分もあって、ある時点でディフォルメや創作や捏造があったとしても、それを検証する資料が無いにせよ曖昧なまま正史として語り継がれている部分もあるのだろうな。

歴史は勝者によって書き換えられてきたという側面もある。
だからこそ小さいことでもひとつひとつ丁寧に史料を紐解いて検証し紡いでいくことや、今起こっていることをアーカイブしてマクロ・ミクロ両面から客観的に正確に後世に伝えていくことがとても大切だ。


文字の輪郭を写す。
コピー機のあけぼの。


記述を写す。見聞を写す。
印刷、録音技術のあけぼの。


技術の進歩によって、より客観的に歴史を記録できるようになった。


阪神淡路大震災時の記憶。
高速道路が折れた映像は相当インパクトあったが、あれももう30年も前になるのか。


「写ルンです」は写真をグッと身近にした。
デジタルカメラの隆盛により一時は完全に息の根が途絶えかけたフィルムカメラだが、昨今フィルムの持つ”エモさ”が若者に受けて局地的に復活の兆しもある。

ワープロが単体で復活することはさすがにもう無いだろうが。


記憶に新しいコロナ禍。
ただのアナウンスの掲示物だったり「自粛警察」の張り紙だったり、とにかくアーカイブしておくということが大切。
後世に、こういう時代があったんだと伝える時に実物があるのとないのとでは説得力に雲泥の差がある。

「自粛警察」の張り紙が本当に展示されていたのには笑ってしまったが。


一番心に残った展示品。

正倉院所蔵品の古文書。通称「大大論」

これは、当時の写経生が大声で言い合いをしている様子を描いた「落書き」の一つであるとされている。同じ紙には745(天平17)年の経典書写の作業記録が途中まで書かれている。この「落書き」自体がその当時何かの意味を持つものではなかったのだろう。それが何らかの経緯で残り、正倉院の中で1250年伝来することで、当時の様子を知ることができる超一級の資料となった。

公式図録解説より

当時の様子が思い浮かぶ。
これを描いた人はあまり勤勉な人ではなかったのかもしれない。
だが絵を描くことは好きだった人なのだろう。
写経に疲れたのだろうか、作業途中で筆を置き他の写経生の言い合いを眺めているうちにその光景を何となく描きだした。
被り物、服の着こなし、髭や顔立ち、描いているうちに次第にのめり込んでいった。
そんな様子が生き生きと伺える。

言ってみればただの「落書き」でしかないのかもしれない。
だが、それが他に例を見ないものであれば後世にとっては超一級の資料になりうる、というのが面白い。
そしてその絵が誇張してあったり、なんなら全くの創作物だったりしても、それが「当時の様子を写す」貴重な品として扱われるのだ。

現代の世の中に溢れるマンガたちも数千年後かには超一級史料として扱われていたら面白いな。

「20世紀には22世紀から来たポケットから何でも出せる青色の猫型ロボットがいたのだよ」
「宇宙世紀0079年。ニュータイプと呼ばれる人たちはモビルスーツというロボットを自在に乗りこなせたのだよ」
「西暦199X年。世界は核の炎に包まれ、国家が機能を失って暴力がすべてを支配する世界となった大地で、北斗神拳という武術があったのだよ」

とか未来の歴史の先生が授業していたらウケる。


3Dプリンターで残す。

地元の高校生や大学生が着色を施しレプリカとして制作する。
現地の所蔵者と地域の未来を担う生徒・学生が関わることで、単なるレプリカの域を超えて本来の仏像の「身代わり」としての機能を持つ、というのが面白い。


 歴史というのは固定されたものではない。歴史学者のDavid Brightは以下のように述べている。
「記憶はしばしば独占され、歴史は解釈される。記憶は世代を超えて受け継がれ、歴史は改訂される。記憶は、しばしば物や場所・記念碑に集約され、歴史はそのすべての複雑な背景を理解しようとする」
 歴史とは、常に発見され、再解釈され、書き換えられるものなのである。それは歴史学研究によって新たな視点から書き換えられる側面もあり、忘却や歴史修正主義的な動きによって変えられてしまうこともある。学術的手法にもとづき新たな歴史を描き、忘却に抗い、誤った歴史の解釈が行われないためにも、多様な歴史資料が残される必要がある。
 そのような課題意識を込めて、「あなたが100年後に残したいものは何ですか?」というメッセージを掲げた。何を過去から受け取り、未来に受け継ぐべきなのか、引き続きともに考えていければと願う次第である。
(後藤 真 国立歴史民俗博物館 研究部 准教授)

公式図録 後書きより部分引用

さて。
私が100年後に残したいもの。

…何だろう。

日本という国。
そこに住む孫やその子孫の笑顔。

なんかありきたりでざっくりしているな。
だけど結局そういうことなんだと思う。

きっとそう願ってこの国を作り、そして護ってきてくれた先人たちに感謝。



いやあ、しかし総合展示と企画展示合わせてめちゃくちゃ疲れたけど充実してたわ〜。
本当に感動するほど素晴らしい博物館だった。
来て良かった。そしてまた来たい。

惜しいのは椅子の選定について。
まあそれは【美術館の名作椅子】としてまた別の記事で取り上げよう。


死に損ないのへろへろな状態だったので写真を撮り忘れたがミュージアムショップも充実していた。
土偶や埴輪、金印のレプリカ、書籍、ガチャガチャ等々、がっつり大人買いしてしまった。


我が家の埴輪たちにお友達が増えた。
(そして、また嫁に怒られた…)
いや、違うのだ、これはアーカイブなのだ。
つまり私が100年後に残したいものなのだよ…ボソボソ
(嫁、さらにブチギレ…)




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