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30余年ぶりの再会『銀河鉄道の夜』


この絵を見た時、久しぶりにその物語を読んでみようと思った。

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「これって、銀河鉄道の夜やん。こんな美しい世界の物語やったんや」

絵の前に立つと、すーっと意識が遠くなってしまうくらい美しかった。何度も読もうして、毎回確実に挫折した物語。初めて出会ったのは私が小学生の頃だった。

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私が宮沢賢治の童話と初めて出会ったのは40年以上前、小学生の頃だった。通っていた小学校には、当時5年生が学年全員でとんでもなくおっきな紙芝居を作り、それを全校生徒の前で読んで見せるという行事があった。運動場で800人超えの全校生徒が全員見れるくらいの、とんでもないおっきさだった。そのとき初めて宮沢賢治の童話をしっかりと聴いた。『注文の多い料理店』だった。

最初は「ちゃんと静かに見て聞きなさい!」とあちこちで先生が注意する声が聞こえたが、紙芝居がめくられるにつれ、どんどん話に引き込まれる子が増えた。最後の盛り上がりの時は、運動場が静まり返った。終わった後、子どもたちも先生たちも全員で力一杯拍手した。今だったら絶対誰かがYouTubeにアップしていたことだろう。翌日、図書室で宮沢賢治の童話を借りる子が増えた。私も借りて、面白そう読みやすそうな物語を読んでみた。当日流行り始めていたアニメのタイトルに近い『銀河鉄道の夜』も手に取ってみたが、数行で本を閉じた。

中学生、高校生。思春期の頃に、流行病のように再びその物語を開いた。だが、『第一章』の終わりで挫折した。流行りのティーン向け小説や音楽、好きな男の子、自分の進路に私の頭と心はすぐにもっていかれた。こうして、銀河鉄道の夜を読みきれないまま、私の10代は終わった。それから30余年、52歳の私は影絵作家・藤城清治さんの展覧会で、挫折し続けたあの物語に再会できたのだ。

もう一回読んでみよう。今度はちゃんと最後まで読んでみたい。まだ暑い日が続く9月に申し込んだキナリ読書フェス。私は課題図書に『銀河鉄道の夜』を選んだ。

『銀河鉄道の夜』をAmazonで探していたら、藤城清治さんの絵本がスマホ画面に出てきた。

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原作 宮沢賢治
影絵と文 藤城清治

あの影絵展で見た絵が表紙だ。藤城さんが文も書いてはるんや。でもこれ、

絶対マーカー線引かれへんやん。

値段を見て、すぐにポチッとするには躊躇ったが、文庫本と一緒にカートに入れた。

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こうして準備万端、キナリ読書フェスが始まった。1日目は各自課題図書を読む日。なんと私は味噌仕込み会の予約をしていた。昼間4キロの味噌を仕込み帰宅、晩ごはんのポトフを仕込み鍋にかけて、ポトフができるまでちょっとでも読もうと、ようやく『銀河鉄道の夜」を開いた。

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10代の頃挫折していた『一 午后の授業』が読めた時、「今度こそ最後まで読める」と思った。だが五、六と進むに連れて、10代の頃と同じような気持ちになった。頭の中に全く絵が浮かばず想像できない。「そうや、これ読みながら読んだらええんや」私は藤城清治さんの絵本を読みながら、文庫本を読むことにした。絵本を開くと、藤城清治さんのぐんと優しい言葉がすっと入ってきて、最後まで読んでしまった。

結末、わかってしもたやん。まあええわ。これで想像しやすくなるやろ。

絵本を開けながら、文庫本を読み進めた。読みながら、あの絵を見た時のように、すーっと意識が遠くなるような気持ちよさを感じていた。そして、なぜ子どもの頃、10代の頃、この物語を読んでは挫折したのかが少しわかった気がした。

私にとってまだまだ『死』が身近ではなかったのだ。

小学生の頃、遠く離れた島に住む父方の祖父母が亡くなった。私が人生で初めて体験した大切な人との別れだ。悲しかったし、いっぱい泣いたが、その悲しみは深く私の中に沈むことはなかった。中学生になる前、子どもの頃毎日一緒に過ごした母方の祖父が亡くなった。今まで感じたことのない悲しみで、お通夜でもお葬式でもずっと泣いていた。

20代で母方の祖母、その妹、そして母を亡くした時。それは悲しみだけでなく、痛みになっていた。何年経ってもふと思い出すと涙が出た。涙と一緒に痛みもでる。特に母の死、その苦しそうな臨終は、私の頭に今も残っている。痛みはお腹にくる。2年前父が亡くなり、私が子ども時代を過ごした家族は、5歳離れた兄だけとなった。あの頃私の周りにいた大好きな家族、分かり合えなかったけど大事だった家族は亡くなり、兄と私だけ残った。

こうして大切な人との別れを一つ一つ重ねて、歳を重ね、生きてきた年数より残りの年数が少なくなって、自分の死を10代の頃よりずっと近く感じるようになった。30年ちょっとぶり、そして初めて読んだ『銀河鉄道の夜』は、そんな私に『死』を見せてくれた。


「ああ、気持ちいい。自分が死ぬときは、こんな気持ちでいたいな」

不思議とそんなことを文庫本の片隅にメモしていた。乗っていた船が氷山にぶつかり沈み、亡くなった女の子と弟、家庭教師の青年の話のページだった。

そんな風に死を思いながら読んでいた私が黄色いマーカーを引き『ここいちばん好き』と書き込みをしたのはこの文章だった。

なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。
灯台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」青年が祈るようにそう答えました。


最初私は、「幸福に近づくため一あしずつ歩んで生きていく」ことだと思ってここに書いていたが、もう一度読み返して書き直している。これ、ほんまに「生きていく」なんやろか? カムパネルラも青年も、『ただしいみち』を進み死ぬことになったやん。そしたらほんまに、「生きていく」ことだけ言うてるんやろか?

どっちかなんて、決められへんねんやろうな。
歳を重ねてこの物語を読んで良かったと思う。
わからんこと、決められんことを、そのままにしておけるから。
またいつか、わかる時が来るやろうと待つことができるから。

ジョバンニが青年と姉弟が降りたサウザンクロスで降りなかったように。カムパネルラがお母さんを見つけた『ほんとうの天上』が、ジョバンニにはきれいな野原には見えなかったように。そして、ジョバンニが列車を降りたところ(目を覚したところ)はもとの丘だったように。私も自分が今生きる世界に戻ってきた。来年のための味噌を仕込み、冷蔵庫の中身を思い出しながら晩ごはんを考える、私が今生きる世界に。物語の最後に、私はこんなメモを残していた。

人は絶対しあわせになるようになっている。
もうしばらく私は私の世界で生きよう。しあわせに生きよう。
遠い世界、銀河のはずれに逝った私の家族も、みんなしあわせだといいな。
きっとしあわせなんやろな。


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わたなべ ますみ
美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。

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