ふわっと口語で愉しむ『言志四録』 今週の言葉「164 若い欲」+chat「偏食」
164 若い欲
若い時に欲望をためこんでしまうのは、
よくない。
精神がのびのびできないからだ。
だからといって、
セックスにのめりこむのは、
chat「偏食」
「今週の言葉」にかこつけて、どうでもいいことを呟きます。AIに書かせているのではなく、AIを少し使いながら書いています。30年ちょっと昭和の時代を生きた者です。
偏食はいけないことなのか?
たとえば、ご飯。ごく最近まで、人々は「主食」を求めて大変な苦労をした。飢饉が起こり、米騒動が起こり、幕府が1789年「囲米」(かこいまい)を命じて米の備蓄をはじめたり。思えば、昭和まで続く「貯蓄重視」の考えは、飢饉に備えた囲米あたりからずっと続いていたのかもしれないですね。
ちなみに、囲米(かこいこめ、じゃないです)の年、フランスではあの「フランス革命」が起きています。
古いドラマですが『天下御免』(早坂暁脚本)では、平賀源内たちが気球に乗ってフランスへ行くシーンがあったような気がします。
さて、偏食について書くはずだった。
米が大事な時代の長かった日本では、米食を偏食だとは言いません。でも、あとから来たパンについては、「パンばかり食べて」と言われた時代もあって、いまでも白い食パンについて攻撃している人たちもいる(ライ麦パンや全粒粉ならいいのか)。
ある意味で偏食は生きる知恵だったのかもしれないし。
カレーを作ったら「三日ぐらい毎日カレー」となる家庭があってもまったく不思議ではなく、それを偏食というのかわかりませんが。
野菜食べない人も、けっこういますよね。
偏食はよくない、との主張は、もしかすると「栄養価」を考えたり「給食」に正解を求めるような考えに通じているかもしれません。正しい給食を突き詰めると栄養価のバランスを取ろうとし、「残さず食え」となりやすい。「体にいいから」と言うけど、心にはよくない。優れた栄養価があれば、心も健康を保てるならいいけど。
私は子どもの頃、給食はあったりなかったりで、給食のときは「三角食べ」を推奨され、パン(私の時代には米飯の給食はありませんでした)、牛乳、おかず(鯨の肉とか出てました)を、一口ずつ順番に食え、というわけのわからぬ指導を強制されました。
じゃあ、居酒屋で、野菜、肉、酒の三角食べをしていたりして。
パンのあと牛乳は「あり」ですが、牛乳のあとのおかずは「なし」な感じがして、ずっと逆らって適当に食べていたんですけども。たいがい牛乳はいっきに飲んで、パンをその余韻でいっきに食べて(当時のパンはおいしくなかったので、いっきに食べないと食べきれない)、最後におかずに取りかかることが多く、そうすると、おかわりを前提におかずから食うやつにはスピードで負けるのですが。
偏食はいけないという根拠はどこにあるのか。基本は栄養バランスの問題で、とくに成長期の子どもにとって、必要な栄養を摂取できなくなる怖れがあるから「偏食はダメ」となっているみたい。
だったら成長の止まった人(だいたい20歳前後で成長は止まるようなので)は、偏食してもいいことになるのでしょうか。
ChatGPTにそのあたりを尋ねてみたら、ありきたりな正論に加えて「食事の楽しみや食文化との関わりも損なう可能性」を指摘されました。
「あ、ごめん、おれいまラーメンの口だから」と、友だちがラーメン屋へ行くとして、「おれはパンしか食わん」と言う人は一緒に食事する機会を失うのだけど、それ、別になにも損なっていないな。
私個人は、山菜系統、米麹発酵系統がほぼダメで、以前、山形へ行ったときに食べるものがあまりない印象を受けたりもしました。旅館の夕食は山菜(そういう季節だったのでしょう)がたっぷり。魚があったと思ったら発酵系でだめだった。味噌汁にも山菜が入っているし。蕎麦にも入っている。「パンが食いたいな」と思ったりもしたのですが、だったらコンビニで買えるけど。パンにも山菜が入っていたりして。
一方、山菜好きは大勢いるので、私はそういう人たちと一生、楽しく会食することはないのだろうか? それは不幸なのか? よく言う「あ、それ人生半分損してますね」なのか?
ま、そんなことはないわけで。
一方、テレビ番組「マツコの知らない世界」を見ると、ひとつの食品にのめり込み、三食(ときにはそれ以上)をそればかり食べてきた「専門家」も登場し、その人が楽しそうに生きているのを見るにつけ、「偏食、なんの問題もなさそう」と思ってしまう。
そもそも「ひとつのことを極める」ことも、日本的文化として理想視されていることからすれば、偏食こそが最高の美食かもしれない。
ChatGPTは指摘しなかったけど、「子どもの見ている前で赤信号を無視して横断歩道を渡るな」と主張する人がいるように、「子どもが真似をするから偏食するな」と主張する人もいることを考えると、「子どもにダメと言っていることは大人もダメ」としてしまう文化もありそうですね。
だけど、そうなると、それも奇妙な「偏」を感じてしまうけど。