資料紹介「飯田年平上記絶版建議」
結構誤解されているのだが、明治以降の国家神道は、幕末の尊王攘夷運動のバックボーンとして強く支持された平田派国学を継承したものではない。乱暴に言えば津和野・鳥取系の、西洋技術の導入すら是とする現実路線の国学者たちが、長州閥の政治権力と協力して基礎を構築したもので、宗教の外側に国家神道の儀礼システムを置こうとするものである。それによって、神道を宗教でなくすことによって、国家儀礼としての神道行事に、宗教的信条にかかわらず国民を参加させることが可能となるからである。
ところで、このシステムの構築のためには、「日本神話は事実である」という信仰を、信仰意識のさらに下に植え付ける必要がある。
平泉澄に代表される皇国史観は、いわばこのシステムの強化のために構築されたカラクリであり、国家総動員体制という共産主義的戦時体制の構築を可能としたのも、神話を歴史と一体化させる国家神道の儀礼システムの存在だった、というと少し言い過ぎかもしれないが、「歴史意識(=「国民」という歴史的集団の統合理念)」を「神道」によって置換(あるいは構築)したことこそが、国家神道の近代日本国家システム内の意義であった。
そして、国家神道システムの構築者たちは、早い段階からこのことに自覚的だったようである。
下に挙げたのは、鳥取藩出身の国学者で、明治維新後は新政府に出仕し、門弟ともども国の神道関係の官僚機構の確立に取り組んだ飯田年平が、明治9年に伊藤博文内務卿に提出した「建白書」である。
飯田年平は鳥取市鹿野町にある加知弥神社の宮司の家に生まれ、本居大平、加納諸平らに師事した。門弟に鳥取藩士で天皇陵墓の調査に従事した足立正聲らがある。
この建白書は、近年でもオカルト本などで扱われることのある、神代文字などを収録した偽書『上記』について、「歴史を誤らせる可能性のある本」であるとし、伊藤内務卿に絶版と続編出版の差し止めを求めたものである。
出版統制の早い時期の事例としても興味深いが、正史を乱すことに対する飯田年平の反発は、単に思想信条の問題ではなく、新政府内での神道部門と国家神道の確立を目指す立場として看過できなかったものと考えられる。
「一 昨明治九年十月十六日附ヲ以テ近来出版ノ略史体ノ書誤謬不少ニ付御取調被成度云々及建議居候処、尚又昨十年七月大分県士族吉良義風ナル者御免許ノ上出版候上記抄訳歴史部ト題スル書ヲ一見ニ及ヒ、甚ダ驚愕候。右ハ偽書ニ相違有之間敷、先ツ表題ノ上記(ウエツフミ)ト云フ語解ス可カラス。上古ノ記ト云フ意ナラハ、カミツ代ノ記ト云フ可シ(コノ代ノ字ヲサリテカミツ記トハ云フヘカラス)。上代ヲバカミツ代ト云フ例ニテ、ウヘツ代ト云フコト云ルコト無シ(況ヤ代ノ字ヲ去ルヲヤ)。又日向国某村ヨリ掘出ス石蓋ニ刻シタル神代文字ト云フモノハ、此類世上ニ間々偽作シ妄説ヲ加フル者アリテ信ズ可キモノニアラス。且其説ヲ主張スル者アルモ畢竟奇僻ノ言ニシテ確証アルコト無シ。此事ハ伴信友ノ著ハセル仮字本末ト云フ書ノ附録ニ詳カニ弁アリ。又神武天皇ノ上ニ七十代ノ天皇ヲ増加致シ候事朝廷ヲ憚ラス正史ニ素リ世人ヲ誑惑セントスル。何等ノ結構ソヤ、コノ他記スル所ノ事々物々、悉ク皇国ノ上古ノ事態ヲ錯乱ス。之ヲ弁ヘントスレハ、短紙ニ盡クス可キニアラス。但シ心得タル人ノ為ニハ敢テ縷々弁駁スルニ及ハス。故ニ世人多分度外ニ置テ問ハサル可シト雖、若輩生徒等或ハ之ニ惑ヒ、又外国人ニ訳スルコトアラハ、遂ニ吾正史ヲ一世界ニ誤ツコト無シト云フ可カラス。依之一応御取調御決議ノ上右書絶版、次篇出版御差止相成候様被成度、此段及建議候也
飯田年平
内務卿 伊藤博文殿」
※福羽美静 (硯堂)『硯堂叢書』(八尾書店、明治28年)所載