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進む劣化に我々はどう立ち向かうのか?立ち向かえるのか?
現代の大人の劣化(内田樹氏曰くサル化)は、「教育」をも「消費」と同じ枠組みで捉えてしまう過ちを筆頭に、目に見える形で進行している。
僕は、各ご家庭や子どもたちに点数を切り売りしているわけでもないし、そんな気もない。
もちろん点数は上がるが、それはおまけのようなものに過ぎない。テストの点数がゴールになる人生ほど、愚かな人生もあるまい。
また、その価値の重みを考えれば僕や仲間たちが提供する学びは、圧倒的な安価にて届けている。
実際の提供価格が安価なのは、僕らがあくまでもNPOという利潤の追求が主ではない法人格のもとで、学びに取り組んでいるからに他ならない。
そして、いよいよの日本人の劣化、もちろん地方人の劣化は、「教えること」と「学ぶこと」の違いも認識できなくさせるところまで来た。
形上、表面上、子どもたちをひたすら過保護なまでに教え込むことは、学びとは別次元のことだ。
特に昨今は発達障害という世代全体に見られる傾向と彼ら彼女らの持つ特性を無視して指示命令のもとで教え込むスタイルは、明らかに当該世代には効果しない。
重要なのは、特性を理解した上で、彼ら彼女らが学びやすくかつ効果的なスタイルで「学ぶこと」だ。
「教えられること」は「学ぶこと」と同義ではないが、多くの場面でそれらは取り違えられてしまっている。
学ぶことができなければ、教えられることなど一体何の意味を持とうか。
物事の表面のみをみて、思考することすらできず、本質を見ることの叶わない大人が増え続けている。
私たちはそこに危機感のある方と、共に、試行錯誤していく心積りだ。
昨今の超過保護主義、一昔前の指示命令型根性論には興味がない。
これら両極端は、単なる割り切りでしかなく、思考も忍耐も要さない。
子どもたちがこれらによって真に教育されることはまずないだろう。
消費者としては、お金を頂点にした安易な割り切り型の振る舞いでも十分であろう。否、むしろ、その方が都合が良いのが消費行動である。
なにせ利便性や費用対効果を考えることが正義なのだから。
おまけに、限りなく無時間の世界を欲することが善となる。もちろん完全体であるから人の話を聞き受け入れることなど必要としない。
消費においては、学ぶことは必要のないことだからだ。
翻って、教育とそこにある学びは、それら消費行動とは、全く真逆のものであるといってよい。
表面では何もわからず、お金によって完全なる優位者としてそこに立つこともできず、非合理で、時間がかかる。子どもたちのことは、何一つ思い通りにならない。
そこには間違いなく思考も忍耐も必要だ。
我々は否が応でも許容を余儀なくされるのである。
思い通りにならないことがフツーになるとき、はじめて我々大人の目は開く。
内田樹氏の言葉を借りれば、子どもたちは「種子」である。
親である我々大人にできることなど限られている。思い通りになどいかない。
ところが今、そのようなある意味で農業的な感覚は忘れ去られ、子を「工業製品」のようなものと見なしているではないか。ああすれば、こうなる。完全なコントロールすら可能。それが工業社会から我々が習うことになった勘違いである。
今や子どもたちは、大人の思うままにコントロールされゆく製品に成り代わっている。ああすればこうなる。固定され完成された存在に、成長はない。
ゼロか1かのみで思考し、間に留まることはできない。気に入らないことはすぐに切って捨てる。今すぐ解決しなければ苛立ち、時間への許容はない。
大人のエゴ、大人の煩悩による弊害である。
劣化は、この先ますます進むだろう。
私は、この場所で、物事の本質を見ようと辛抱強く思考する人たちと共に、前進していくつもりだ。
それは、無自覚な奴隷になることを良しとせず、自由の名の下に自分の道を歩みたいと願い、日々自己の向上に努める人にだけ拓かれた道である。
今やわずかばかりの人たちなのかもしれない。
僅かでも良い。
そういう方々と共に進んでゆくのだ。
(終わり)
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