コンテンツの良さがそのまま良い教育にはつながらないワケ
授業というのは、もしくは、子どもたちの学びというのは、コンテンツやカリキュラムがどんなに良くても、それだけではあまり有効ではない。
コンテンツ、いわゆる何を学ぶかのその中身は、もちろん、充実したものであるに越したことはない。そこを追求する役割の機関や人たちにこれは期待し続けたい。
しかし、どんなにいいもの(コンテンツ)ができたからと言っても、最も大事であるはずの「子どもたちがどう学ぶか、どう学べるか」については、別次元の難しさがある。
目の前に相手がいる難しさだ。
コンテンツの充実は、誤解を恐れずに言えば、究極のところ、子どもたちを無視しても作れる。つまり、大人側の自己満足で作り上げることができる。
しかし、子どもたちと直接接する場、子どもたちが直に学ぶ場は、当然、そうはいかない。
目の前に相手がいる。
コンテンツの良さ、なんて、学ぶ前に伝えることができない。
科学的に正しいとか優れているだとか、そういうことも、子どもに伝えることはできない。
現場では、子どもがそっぽを向いたら、それでおわり、だ。
最初からそっぽを向いていることだって、フツーにある。
次元が違う難しさなのだ。
特に、現代では、と付け加えておこう。現代の子どもたちの特性ゆえ、だ。
想像する通りにはいかない。従来のようにはいかない。
今や学ぶいう行為や振る舞い、そこで起こる事象が、以前の子どもたちとは大きく異なるのだ。現場は想像以上の難易度となる。
だから、良いコンテンツづくりやカリキュラム作りは、是非、専門の皆さんに頑張っていただきたいと願いつつ、子どもたちと直接対峙する現場での、
現代の子たちにフィットする「導き」が何よりも重要になるのだ。
(導き、と書くのは、指導という言葉を避けたいから。使いたい方は使えば良いが、「指導」が可能だと思っている人は、現場では通じないので気をつけられたし)
授業というのは、
もしくは、
子どもたちの学びというのは、
コンテンツやカリキュラムがどんなに良くても、それだけでは有効に働かない。
現場では、異次元の難しさが待っている。
そっぽを向く子を振り向かせるスキルが必要だ。
(スキルとわかりやすく書くが、実際のところはもっと深いところにある、先生の"価値観・指針・信念"に関わるものを指す)
現場は大きな困難を抱えたまま、何年も苦しみ続けている。
先生サイドのストレスも増えるばかり。辞めていく先生と教員不足。
それらの要因が、実は、この、現場での異次元の難しさにある。
まずはそのことをお知らせしておきたい。
(おわり)FB投稿より
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