振り返ると霧の中に/先生という仕事の危険
先生と呼ばれる仕事には、いつも大きな危険が伴っている。
振り返るたびに、やらないならやらない方がよい、立たなければ立たない方がよい、とさえ思う。
危険とは何か。
それは、横柄さであり、傲慢さであり、生まれくる万能感である。
僕らは誰一人として、相手の全てのこと、相手の心の全てを読み取ることなどできない。
たとえそれが心理学者であっても同じである。見てとっている部分などその人の人生のスケールでみれば、ほんのわずか一部、一側面でしかない。
先生と呼ばれる仕事が、その目を曇らせる。
若手や新人の時はまだしも、時間の経過と共に、僕らは、横柄さや傲慢さを、無意識のうちに膨らませてゆく。失われてゆく謙虚さや素直さ。
それを生み出すのは、誰もがその内に持つ煩悩である。
人が、自身の煩悩を切り離し、生きてゆくことは不可能だ。だから、横柄さも傲慢さも、万能感も、心の中に生じるのは必然。先生と呼ばれる職につけば、なおさらのことである。
それはいつしか、言葉遣いや態度、思考に顕れてくる。
だから、振り返るたびに、いつもうんざりさせられるのだ。
そして、そのたびに恐ろしくなる。
一体、自分は何者であろうか、と。
いや、何様であろうか、と。
知らず知らずのうちに、相手のことをすべてわかった気になったり、相手は〇〇だろうと決めつけてしまったりする。
中には、操作主義に走ったり、他者を自分に依存させたり、そんな人も出てるくるだろう。
やらなければやらない方が良い。先生などという仕事は、危険極まりない仕事だと、振り返るたびに、いつも思う。
歩いているとき、走っている時には、気づけないから、立ち止まって振り返る。そういう必要がある。
そのたびに葛藤があり、同時に、落胆を繰り返す。
失意、失望、挫折、絶望。
どの言葉が当てはまるのかよくわからないが、そういうものに打ちのめされる。そして、自分のあり方のまずさと、そこにある煩悩に、恐れを感じる。
なんとも危険な仕事である。
生き方にできるならまだしも、仕事や職業と捉えても、危なすぎて、やらないならやらない方が良い仕事なのだと思う。
中には、平気な人もいるのかもしれない。先生や師のようなものになりたいと、憧れる人もいるのかもしれない。
そうだとしたら、僕は先生という仕事や、師という生き方には向いていない。と、よく思う。
来る未来を、眺めようとするとき、それは案外、明るかったり、視界が晴れていたりもする。
一方で、振り返って見る道は、霧のようなもので霞んでいる。
そんな道が、先生のような者として立つなと囁いている。
だから、僕にはあなたのことはよくわからないし、あなたの道を指図することもできない。
それでまた、なんとか、自分の道を歩こうと努めるのみなのである。
(おわり)