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【決定的な問いかけ】学校と教師のあり方、授業や指導法が問われる時が今やって来ている

これまで合理的、効果的でなく、
慣習的で精神論的に行われていた無駄を取り除けるか否か。

学校と教師のあり方、授業や指導法が問われる時が来ている。
少なくとも、部活に熱を上げている場合ではない。


実は僕自身はあまり期待はせず、これでもなお、かつての価値観は生き残るかもしれないと、比較的悲観的に推測をしているものの、
今がそういうタイミングであることは確かだ。

ここでは非常に決定的なことを書くので、関係者の皆さんには、心に留めておいてもらいたい。


それはこういう問いかけだ。


「そのリアルで行っていた授業は、本当にリアルでしかできない意味のある授業ですか?」

今行われている授業のほとんどは、長く続いてきた集団一斉型、講義型であるはずで、そうであるならば、多くの授業はこの問いかけになんらかの意義を持つ解答を与えることは、不可能に近い。

9割を超える割合で、現状のリアル授業はリアルである必要はなく、オンラインに今すぐにでも置き換えられるものであることが、はっきりするだろう。

どう取り繕い、言い訳分けをしようと、このことは今、白日のもとにさらされる宿命にある。

時代の変わり目に、とてつもない荒波を耐え忍ぶ試練を、今、我々は与えられたのだ。


重ねて書くが、
それでもなお、あり方の変化は起こらないかもしれない。
ネガティブな推測。

それほどにかつての価値観は強固なものであることが判明してしまっているからだ。

昨今の続きすぎる学校不祥事が、それでもなお“続き続けてしまう”ことが、そのことを表している。

反省も見直しもなく修正改善もないまま、価値観を維持する力が強いために、ニュースは続いてしまうのだ。

ふたたび問う。


「そのリアルで行っている授業は、本当にリアルでしかできない意味のある授業ですか?」


リアルでやることの意味、オンラインやAIではないことの授業の意味を、その授業が持ち得ているのか?


この問いは、
親御さんにも同様に考えてもらう必要がある。

これでよしとするのか、
これではまずいとするのか。
受け入れるのか、
受け入れられないのか。

従来のあり方に、Goを出すのか、ストップをかけるのか、は、本来、われわれ(近代国家のもとの)市民に権限があるはずだからだ。

システムに依存したままではその目は閉じたままであろう。

主権が自分たちにあることを忘れさせてしまう。


無駄は取り除かれ、本質こそが残る。

それも、未来に対して適当なものこそが。

大事な時を迎えている。



(おわり)






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本田篤嗣(Master Honda)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。