教育が教育でなくなった時代に/宿題課題漬けの漬け物の未来
大量の成果物だけを提示、並べさせ、あたかもそれが成果のように信じ込ませる。
頭を使うわけでも、理解するわけでもない。
子どもたちの学力が大きく低下してきて、すでに年月が経ったが、現場で取り組まれた指導は、単に、課題宿題漬けで管理するという単調な手法だけであった。
時間だけは大量に消費するので、子どもたち自身もやった気にはなる。
”あぁこれがまさに勉強だ”と。
地域でこの手法が長く続くと、地域全体で、これが勉強だと全体で思い込むことになる。
今や疑いの余地もなかろう。
詰め込み教育と呼ばれた時代は、これよりも随分ましだ。
ここで述べる状況は、詰め込みと呼ばれたスタイルとはまったくの別物。
奪われた時間は取り戻せず、真に成長に充てられるべき時間が失われている。
豊かな時間な流れも、深い教養も、人間力の育みも、すでに忘れ去られている。
いわゆる地方の名門校(高校)と呼ばれた、地域のトップ校も、すでに従来の形を留めてはいない。
塾化したそれは教育としてはすでに機能していないと言っても言い過ぎではないだろう。
社会に出た後の姿を、さらにその先の20年後、30年後の姿を、もはや想像すらしていないのかもしれない。
いつから我々は、単調で短絡的で小手先の未来しか描けなくなったのか。
それともこれこそが進むべき未来だったのか。
仮に民主主義も資本主義もひっくり返る未来が来るなら、今実現されようとする人間像は都合の良いものなのかもしれない。
いずれにせよ、教育はすでにその姿を変え、我々を従来とは別の場所へ連れて行こうとしているかのようだ。
これは、地方のある地域の一例に過ぎないが、先進事例でもあるだろう。
もちろん、全国にはここと似たような場所もきっと多くあるだろう。
(おわり FB投稿より)
本質的な学びをここで。そして未来へ。
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