システム依存から共同体の空洞化について考える
学校が休校になり、今我々が気付くのは、システムへの大きな依存であろう。
システムと個人の間を埋める、地域のつながり、共同体、いわゆる生活社会。
すでにここが空洞化していて、子どもたちをシステムに預ける以外の選択肢が失われていることがわかる。
この状況の中で、
「学校が休み→(学校の)勉強をせねば!」
だけがなぜが強調されるのは、今の日本固有の問題なのかもしれない。
民間の営利企業もここぞとばかりに、無料学習サービスを提供する。ただの営業、宣伝活動であることを果たして我々は理解しているのか否か。
話を戻す。
「学校が休み→学校の勉強をせねば!」、しかも主にそれのみが強調される必要はない。
なぜなら、これこそが激しいシステム依存を表しているから。
社会学者宮台真司氏の言葉を借りるなら、
「法の奴隷、言葉の自動機械」である。
(要約すると、システムに奴隷のように依存したら、なーんも考えてないアホウになるよ、という意味)
「学校が休み→普段できないことをしよう」、で十分ではないか。
「学校が休み→思う存分遊んでやろう」、だって新しい発見があろう。
それは、読書かもしれないし、楽器演奏かもしれないし、絵を描くことかもしれない、ゲームをすることかもしれない。
(もちろん感染リスクへの対処は十分にした上での話)
誰もが自分の人生を生きることに集中すべきだ。
システムはその自由を皆が担保するための維持装置に過ぎない。
「〜しなければならない」という言い回しから抜け出す必要がある。
少なくとも、この局面において、学校が管理を強めるのは、学校と先生方の負担を大きくするだけである。
(管理されなければ子どもたちが適切に振る舞えないと考えられている方もいるかもしれない。もしそうなってしまっているなら、そもそも普段の教育の失敗である。別の話になるのでここでは言及しない)
自分の人生を生きるとは一体どういうことなのか。
特殊な状況下で、しかし今後この種の危機と常に対峙していくことになるであろう状況下で、
必要な振る舞いが見えてくるはずだ。
(おわり)