【損得勘定だけで動くクズになるな】人生をHappyにするためのちょっとした話
【損得勘定だけで動くクズになるな】
人生をHappyにするために、誰もが知っておいた方がいい、ちょっとしたお話。
偏差値60超え、それなりに名前の知れているような大学であっても、学生の質はよくわからないものになっている。
際立って優秀な子はいつもいるものだが、アベレージで考えると、え?というようなことが余裕で起こっている。
これは高校に目を向けても同じだ。
分数、わかっているはず?
通分、くらいは、忘れようがないよね?
因数分解ができない?
(数学を例に出しやすいのには意味があって、暗記よりも概念理解に要素が振られるからだ)
それがなぜ起こるのか?
小中高を横断して見ている僕とチームの先生方にはそれがはっきりとわかる。(これには適切な分析力と論理性、研究的視座が必要なので、案外、現場レベルでは、見ればわかるはずのものであっても実は把握されにく。)
先(前)の記事を読めばそれが理解できるだろう。
そして、ここから考量すれば、単に点数を取るだけの勉学、偏差値至上主義的な指導が、ほぼ何の意味をもなさないことが見えてくることになる。
さらに、ここではもう一つ、危惧されるべき点を追加しておく。
小中(今は高校生も気にする)内申点の比重が大きくなり、それを用いた管理統制が行われていることへの危惧だ。
内申点を含めた点数への従属は、損得勘定だけで動く、ちょっとばかり残念な「人」を生むことへと繋がっている。
すでに症状は出ていることは、社会で生きる皆さんは十分に承知されているだろう。
得だからそれをやる、損だからやらない。
合理的で効率的であると見ることもできるが、それ以上のデメリットは計り知れない。
ここでは社会学者宮台真司氏の言葉を借りる。(わかりやすいからだ/氏はわかって酷く厳しい言葉を定義している)。
損得勘定だけで動くクズ、という言葉でそれは形容される。
人の生きる道は、ビジネスや経済活動だけに限定されるわけではない。
ところが我々の指標は、近年、消費を主とする経済活動にその価値基準を委ねすぎたきらいがある。つまり、経済的に価値があるからそれをやる、経済的に価値がなければやらない、という判断基準だ。
「損得勘定だけで動くクズ」はそれを体現する。
そして、彼ら・彼女ら「代替可能な人間」として、その存在を定義されることとなる。
要は、そんなやつなら「誰でも良い」のである。
損得だけ動く彼らには、「あなたの代わりなら、いくらでもいる」という事態が待っているのだ。
レゾンデートルはどこへ?
信頼する友がいる。家族がいる。
彼ら・彼女らが困っていれば、損得なしに、見返りなしに、助けようとするのが、人の本来の姿ではないか。
というより、我々はそのように生きていきたいと願うように、共同体や社会が与える教育やそこにある規範によって、育っていくべきではないのか。
それが、あなたがあなたという唯一の存在である、価値そのものではなかろうか。
そう問いたい。
損得でのみ行動することを余儀なくされた子どもたちは、やがて、それを当たり前の習慣とみなす。
意識せずともそれが身についてしまう。
点数と偏差値、教師の顔色を伺う内申点への過度な固執は、
子どもたちを損得だけのクズ野郎に導くのに、十分な力を持つ。
もちろん、これまで散々言及されてきた通り、既存の管理統制の強まりは、
主体性などどこかに消し飛んでしまうし、思考力や論理力など身につけようがない。これについては言うまでもない。
ここではそれ以上に、子どもたちが次の社会、次の共同体の主役となる時、
果たして、損得だけで動くクズの集合体に成り果ててしまうなら、社会も共同体も如何様にして維持されるのかに疑問符がついてしまうことを問うておきたい。
症状はすでに何年も前から出ていると述べた。
上司の誘いに、それは仕事ですか?プライベートですか?と返答する若者たち。
上司のアドバイスや指示に、やる前から「それやって意味あるんですか?」と答える新社会人たち。
これらはすでに、当該世代全体で見られる症状である。
困っている部下に「本でも読んでみたら?」と口にしたら、強制強要と取られて、まさかのパワハラ扱いされるなんて・・・、でもこれが現実。
なんだかちょっと切ない。
最後に。
宮台氏の指摘によれば、すでに現在の親世代が、損得で動く世代になり変わっていると見られている。
考えてみればわかる。
バブル時代を経験した我々中年も、子供の頃から、「消費」が多くの活動の核にあったではないか。70年代以降の急激な経済の伸びと、大消費時代を過ごした我々は、まさに経済を基準にした価値決めに慣れ親しんでしまっているのだ。確かに。
親もクズなら、子もクズである(宮台氏の言い回しですよ)。
この洞察に真摯に向き合うところから始めたい。
クズ親にならないために(僕も)。
何より、入れ替え可能な人間、なんて寂しい呼ばれ方をされないためにも。誰もがそんなはずがない、かけがえのない存在であるはずだから。
我々は、子どもたちに何を伝え、何を残したいのか。
また、どう振る舞うべきなのか。
大人の責任はいつも重い。
(おわり)