変化し続けるということ/その姿を子どもたちの見せること
学ぶということは、変化するということ。
当然のことながら、大人だから学ばなくて良いはずもないわけで、むしろ、大人だからこそより良く学んでいく必要がある。
そうすると、変わり続けるというのが、学びの中にある人の特徴だとも言えるのだ。
ところがどうだろう。
受験や社会人になるまでの教育の後に、学びが終わってしまっている人が、日本では結構多いのである。
そこにあるのは、「変わらない」大人の姿。
この一つの要因には、消費ピーポー化がある。消費で大事なことは、“変わらないこと”だからだ。レジで支払いをしている間に、消費者が別人になると困るのである。
残念ながら、この点で、学びと消費は相容れない。
学びというのは、大人であろうと子どもであろうと、変わってゆくことそのものであるからだ。
新たな知見、新たな知識、新たな経験を得、それらを受け入れ、血肉に変えていくことで、私たちは変わり続けることができるのだ。
会社の中で部下を育てたり、子育てをしたりといった場面でも、やはりそうした学びは手に入るし、続いてゆく。上司でも親でも、やはり学びの中に身を投じているのならば、変わってゆくことは当然のこととなろう。
なぜか、変わることを拒んだり、思い込みのような非科学的な慣習に固執する人も多い。迷信レベルの経験則や感情論に翻弄されてはなるまい。
学び続けることで、それらを打破する必要があるだろう。少なくとも、本くらいは読もう。
新たな知見を受け入れることで、自分を変えることができる。
だとするとその逆、どんなに新しい知識に触れようと、拒否すればそれまでだ。
学び続けることで変わり続ける。何よりそのことを受け入れることが大切だ。
さて、では今、大人が学び、子どもたちに変わり続ける姿を見せられているのだろうか。
それを問おう。
上司である自分は偉いから、年上の自分は知識や経験があるから、親は子どもより経験豊かだから、それらは、“学ばない”理由にはならない。
むしろ、そう思ってしまうなら学びは止まる。
親だから学ぼう、大人だから学ぼう。変わることを受け入れよう。
あなたは変わり続ける存在でいるのか?
今、そのことを問う。
(おわり)
学び続ける大人になるために。