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【教育と消費はなぜ別物なのか】「学校について考えよう 3」
教育連載(勉強が未来を創る 第11回)より転載
「学校について考えよう 3」
教育の現場で起きているのは、学ぶ側が学びの場においても、消費主体としての「消費行動」を基準にふるまうようになったということ。
ここまでが、前回までの内容でした。
労働という形で共同体に初めて関わっていた旧来の形は姿を変えたのです。
消費行動とは「等価交換」です。
主体が「お金(もしくはそれに代わるもの)」を支払い、その対価として「モノ」を得る、そういう取引です。
そもそも等価交換できるはずのない「学び」というものが、ノウハウや知識のように簡単に取引可能なものとして捉えられてしまっているという問題もここには含まれています。
たとえば、コンビニに買い物に行くとします。
ほしいモノがあるのでお金を持ってレジに並ぶ。
レジの店員は、お金を持っている消費者を「どのような人」であっても対等に扱います。
たとえそれが「老人」であっても「3歳児」であっても、です。
お金はその持ち主が誰であろうが差別をしません。
100円は誰が使おうと100円の価値なのです。
消費主体は等価交換を行おうとするとき、誰の前であっても対等であり、また絶対的存在であるのです。
その絶対的な主体として君臨するというのが、子どもたちの共同体との最初の関わり方なのです。
ですから彼らが学び手として召喚されたとき、学びの場でも「そのようにふるまおう」とすることは変わりません。
ここに学校(先生)と生徒の間にズレが生じるのです。
学ぶということは、これまでなかった知見を手に入れることであり、同時にその知見によって自分自身を変革していくことに他なりません。
学ぶ側にとって大切なのは、「私はまだ学んでいない=私は完全ではない」というスタンスであり、「自分の変化を受け入れようとする」柔軟さなのです。
しかし、子どもたちが消費行動から共同体に参加し始めることで、絶対者としての感覚のみで学びに向かってしまい、学ぶべきものが学べない状況が生まれているのです。
(つづく)
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