モリマガジンvol.10記念号 私のルーツ
【目次】
・はじめに 森のマスター
・ルーツの旅 森のマスター(宿屋)
・自分は変わる ダサワミイロウ(画家)
・そもそも私とは? 髙橋香苗(本屋)
・表紙絵 ダサワミイロウ
⚫︎「はじめに」 森のマスター
ルーツをたどる、原点にもどる、起源、由来、根幹、全てはそこから始まり、積み重なり、生まれるものがある。動きだすものがある、ものたちの本質はそこにあり、今そこに立ち戻った時、新たな時代を迎えようとしている今、わたしたちはどう思うだろうか。心地よいのか、うれしいのか、いやいやそうではないのか、違和感があるのか、それでいいのか。ちょっとしたこと、繊細な感覚。「変わるということはそのままでいること」、ミュージシャンのニールヤングは言った、まさに今、自分のルーツをたどる時ではないだろうか、どうだろうか。
⚫︎「ルーツの旅」 森のマスター
ぼくのルーツ、過去を振り返ると、いろんな記憶の断片が蘇る、どういう基準でその記憶は残っているのだろうか、きっと、それは自分の人生を紐解くキーワードに違いない、ぼくはそう思っている。
小学校の時書いたポエム、ショベルカー(重機)の詩、地元紙に載った、大きな怪物にぼくは食べられてしまいそう、あの時、幼いぼくは表現の豊かさを知ってしまったかもしれない、嬉しさで広がってゆく意識、あの時のワクワク感、そして今、書くことに楽しさ、面白さ、嬉しさを感じる、ハッとする気づきの連続は未来へ導かれ、未来からのメッセージを受け取る、「死はあたたかかった」、受け取るのはいつも過去形で、自分が再びスタート時点に戻るための道しるべ、そう、生きるとは戻ることなのだ、きっと、行き着く先はいつでもあったかいんだ、一歩一歩階段を上がり、ぼくは上へ戻っていく、あったかいところに憧れて、そう、死は魂のあこがれ、生きることは意識のあこがれ、出てきたフレーズ、ぼくのルーツはあこがれ、今までいろんな人に憧れ、学んできた、気付いてきた、そしてそれらを積み重ねてきた。
ぼくが映像祭を主催してた時、地元に縁のある映像作家のかわなかのぶひろさんに出会った、イベント開催の経緯を話すと、「応援する!」、言葉はシンプルでいつも力強かった、個人映像の重鎮が当時若造のぼくに敬語だった、なんとなんと、「キャメラを自分の体の一部のように」、先生の言葉は今でもこころに強く残る、先生の命を映し出す映像作品たち、命をかけるとはこういうことか、その生き様にあこがれた。
ぼくの日記にたびたび登場する音楽家の細野晴臣さん、10年ぐらい前、となり谷であった音楽のライブに行った、ビリビリビリと、心底しびれた、数日後、カフェで細野さんの本に出会った、アンビエント・ドライヴァー、なぜ細野さんはすごいのか、ぼくの研究心に火がついた、調べれば調べるほど、細野さんの知識は幅広く、造詣は深く、感性は鋭く、おおらかで、ユーモラス、神秘的だった、音楽家でありながら、いろんな分野に精通しておられた、そうなりたい、そう思った、それからぼくもいろんな研究テーマを掲げ、気が済むまで、調べ上げまとめ上げた、いろんな角度からものを見ること、そうすれば、より理解が深まり、こころに響き、自然とあふれ出す、作るではなく創る、見るではなて観る、聞くではなく聴く、体ではなく魂で、その時、こころはあったかかった。
細野さんの作品にはどれもしっかりしたコンセプトがある、全ての根底にはエキゾチィシズムという癒しの概念がある、コンセプト、人でいう意識のようなもの、意識は動き出し、作品は歩き出す、そしてみずから無限に広がる世界へ飛び出していく、ロック、テクノ、アンビエント、ポップス、ボサノヴァ、日本民謡など、全てが混ざり合い1つになり、大きなエナジーとなり、大きなグルーヴに世界も踊りだす、コンセプト深く、意識に広がり、伝わる広がる、ホソノワールド。
いろんな人にあこがれて、今のぼくがある、学んでは気付き、気づいて学んで、その繰り返し、ちょっとしたこと、少し気になったことに、耳をすまし大きくうなずく、そうすると、大きな世界の小さな入り口がたくさん見つかる、そう、ぼくの旅はいつもそこから始まっていく。
⚫︎「自分は変わる」ダサワミイロウ
このわたし、というもの。これは、いっさい変化しないのだとおもっていた。しかしながら、今の時代、微細な領域にあってわずかな変容を遂げるのではないか?
学生時代、多少のノイローゼにかかりその頃のスピーチする機会で、『競争はなぜしないほうが良いか?』と題して疑問を語りだしてた。それは、ドロップアウトの契機で、もう何だか諦めていたのだ。競争は競争をうみ出す。と言った内容で、その繰り返しの先に何がある?とはなしていたように思う。純粋な体験よりの疑念で至極まっとうであるはず。
そうして、シュタイナー教育の共同体暮らしを経験して、機織りをおそわったり、当時のことを想うと有事のさいに種から布を作れる技術修得を考え、アメリカで言うプレパラー、非常時に準備する人の様式をめざしてた気がする。
坂口安吾の、『風と光とニ十の私と』にも詳しいが、安吾先生は気がおかしくなるほどに、冷水を浴びて何やら唱えていたらしい。文字も書けない状態から、自力で回復されたようすは、本当に参考になり、今でもおもい出す。ぼくも、全人格否定されたような荒波をくぐるとき、縁側でひとり佇み、ケン化法で作られた洗剤などを落ち着いて検索しながら過ごしては、すこしやっぱり頭を冷やす時間はあったら良いとおもっていたり。
有限な世界からの飛翔はそういった、悲嘆に冷静さを惹きおこす過程ではじまり、このときに自我の変容は若干ながら発生しているのだろう。今では想う。競争は変化せざるを得なくなって居たたまれない。冷静な受容は、その変化をゆるやかに、あたかも自然界に溶けこませるようにもたらしてくれる。そもそもが、他者の尊厳はあるが、自己の尊厳とは何だろうか?
夜の冷気が解け入って来て、伝えてくれる。自我のアバターとして自己があり、本拠地は月だったり、そこからぼくらを眺める僕自身がいるとしたら、この寂滅寸前の(肥大した自己からすれば)やはり自分は仮住まいだから、揚々と易々といきてれば良い。そこに愛があるとすれば、やはり月が眺めてるからわたしは愛するのだ。漱石先生へのアンサーとして、標榜したい。
⚫︎「そもそも私とは?」 髙橋香苗
正直なところ、私はルーツという響きに対して目をそらしがちであったと振り返る。過去形にしたのは、今まではそうであったが、もはやそうしてもいられない、今こそしっかり向き合うべきだと、感じ始めた矢先にこれを書くことになったからだ。ありがたい。
大学生になるまでは、父の仕事の関係で3年おきくらいに住むところが変わっていた。そのせいでいまだに自分の故郷がどこなのかはっきりしない。そうして故郷という言葉から受け取るイメージがずっとフワフワしているので、ある時など「前世はこうだったんじゃないですか」と言われたことをいいことに妙に納得したりしている。以前、ブルージュを訪れた時「私、ここに住んでいた気がする」と言って娘にひどく笑われた。もちろん、誰に言っても一笑される話だ。つまりそれくらい故郷がひどく曖昧なので、ルーツという言葉に対しても確固たるものが持てない。
ところが、つい最近になって「おや」と感じたことがあった。子育てで大変な思いをしているお母さんに対して、地域の賢者が「あなただけの子供ではなく日本民族の子供を育てるつもりで接しなさい」と言った。それを聞いてそのお母さんは、自分の子供だからと必死になりすぎたが、民族という言葉を聞いて楽になったとのこと。民族という指摘が、親子だからという閉塞的な気持ちからもっと大きな視点で捉えられたということだろう。この話を聞いて私もハッとなった。日本民族とは日常では聞かない言葉である。けれども、なるほど言われれば日本民族の子供には違いない。そうして私も私の両親も私の子供も日本民族である。
けれどもこの日本民族という言葉、一方で用いることが非常に難しい。太平洋戦争を経てその後、日本民族という言葉に対してとても慎重にならざるを得ないからだ。けれども「民衆」という言葉では言い表し得ないものが「民族」という言葉にはある。そこには個人を、その民族固有の長い歴然たる流れ中にすっぽりと収めさせる強い引力を感じさせるものがある。どうしたってこの事実から背けることはできないと突きつけてくるものがあるのだ。あなたはその民族の大河のような流れのまさに一滴のような小さな場所に居るのだよと、一気に流れに引き寄せられる。今、日本民族として生きているということ。ここに根を生やしていることは事実だ。
旅した先で「ここにいたことあるかも」なんてフワフワしながら思っても、いえあなたは紛れもない日本民族なんですよと、そのトポスに私は立っていた。
戦後80年近く経ち、経済中心の物質的豊かさを追ってきた中で、かつて有識者たちが「漂流するがごとくの気分」と指摘したような感は今もある。それだけに改めて「民族」という言葉を前にすると確かにひしと繋ぎとめられるものを感じるのではないか。けれどもその一方で「日本民族」と公に向けて発することを躊躇せざるを得ない複雑さも、避けずに独りで検証すべきことだと改めて思う。ひとたび根っこに関して一人で見つめる姿勢を安易に放棄し、集団で都合のいい解釈を広げればどうなるか。それだけは、断固として避けなければいけない。