神様と結びついた料理、日本とインドの食文化の深淵を覗く
神様を信じますか。
神様に会ったことがありますか。
この二つの回答は「はい」しか出てこない。
日本もインドもイタリアもある意味、神様に結ばれた薄い糸があるのだ。
日本とインドとイタリアの神様に繋ぐ命
インド料理と神様も切っても切れない深い関係にある。料理は時に単なる食事を超えて、神々への捧げ物となり、宗教的な儀式の一部を担う。様々な神が存在しているのはインドだけではなく、日本でも大きな存在と深い関係があると感じている。そして、その神秘的な関係性によって、日本での一食ごとの料理を不思議なことにより美味しく味わえていることにも気づく。
ところで、イタリアではキリスト教が国民の約半数を占めてカトリックが特に多く信仰されている。インドと日本のような感じ方はない。ほとんどのキリスト教派は、「父なる神」「その子キリスト」「聖霊」を唯一の神(三位一体)として信仰する。違うようで形のない存在だけど、これを食事で体験できる。
そう。インドと日本とイタリアの神様は遠いようだけど、食事に共通点がある。食材を活かして「食事にする」というのは、命になるということだ。食べる前に感謝を込めて祈ったりすることだ。
日本の「いただく」の大切さ
日本だと、「いただく」という言葉は、神様や位の高い方からいただく時に、頭を下げて敬意を表した行為が起源となっている。「いただく」は、ただ「食べる」や「もらう」という意味だけでなく、自然の恵みを提供してくれた人々への深い感謝の気持ちを表す言葉として発展したと考えられる。自然の命をいただくことで、自分たちも生かされているという、生命のつながりを意識させる言葉。
今回は日本のことを考えながらインド料理と神様について、冒険しようと思う。
神々と食文化は考えたことある?
インドの神話には、神々が食べ物に関わる場面が数多く登場する。たとえば、ヴィシュヌ神は、アバター(化身)であるクリシュナとして、バターを好む。また、ガネーシャ神は、モーダクと呼ばれるお菓子(蒸し団子)をこよなく愛した。今でも多くの祭りで、人々は手作りのモーダクを供える。こうした神々とのエピソードは、食べ物に対するインド人の深い愛情と、神聖なものを食事の中に感じていることを物語っている。
インドの食文化で最も重要な女神の一人が、アンナプルナだ。
彼女は、ヒンドゥー教における豊穣と食の女神で、すべての生命に食を与える存在として崇められている。アンナプルナは、シヴァ神の配偶者であるパールヴァティの化身の一つであり、ヒマラヤ山脈の麓にあるアンナプルナ山は、彼女の名に因んで名付けられたという説もあるそうだ。インドの神様は食と地域に強い影響を与えている。
インド人にとって、神様は単なる信仰の対象ではない
神々を身近な存在として捉え、日常生活の中に神々を意識しながら生きている。食事の時には、神々に感謝の祈りを捧げて、残った食べ物を神様に供える習慣があるようだ。また、特別な日に特別な料理を作って、神様に捧げることで、その日の祈りが叶うと信じられている。
インド料理は、単なる味の組み合わせだと思われがちだけど、実はそれぞれのスパイスや食材に込められた意味や調理法に込められた祈り、そして神々への敬意が複雑に絡み合ったもの。たとえば、ターメリックは神聖な色として扱われて多くの料理に使われる。また、ギーと呼ばれる澄ましバターは、神への供物として用いられるだけでなく、薬効があると信じられ、日常的に食卓に上る。
金沢市せせらぎ通りにある大好きなインド料理アシルワードは、シェフたちは揃ってビハール州出身のヒンドゥー教徒で、祭礼の日(期間)の時などは仕事中でも嬉しそうにしている。仕事の終わりに普段よりも力を入れて賄いを作り、皆で食べるのも大きな楽しみ。このような話を聞いて、料理と神様は繋がっていて、その隙間に人間がいるんだと強く感じた。
食材や食べ物ではなく、インドの人々の信仰や文化、歴史が複雑に絡み合ったもの。神々と食文化は深く結びついていて食事をすることは、単に空腹を満たすだけではなく、神々への感謝を捧げて、自分自身と宇宙とのつながりを感じる行為なのだ。インド料理を食べることはその背景にある豊かな文化や、信仰に触れる貴重な体験といえるだろう。
インドの祭り
インドのことをもっと深く知りたくて、アシルワードに色々なエピソードを教えていただいた。インド人の生活に根付いた行事を調べて、現地の写真も載せているので、インド旅行の気持ちを味わえるだろう。
チャット・プージャー(Chhath Puja)
ビハール州や北インドで11月に行われる。太陽神スーリヤ(Surya)への崇拝を中心とするヒンドゥー教のお祭りで、収穫の恵みと健康、繁栄を祈る特別な行事。
ビハール州やウッタル・プラデーシュ州で盛んに祝われ4日間続く。家族と共に健康や幸運、繁栄を願う重要な伝統行事。
ディワリ(Diwali)
10月から11月の新月の日に祝われる。「光の祭り」として知られているインド最大級の祭り。家々をランプやロウソクで飾ったり、電飾を施したりして、邪悪に対する善の勝利を祝う。ラクシュミー女神(富の女神)への祈りも行い、家庭に繁栄と幸福をもたらすよう願う。
また、以下の祭りでは、シェフたちは故郷の姉妹と離れて生活しているから、店主の妻が姉妹の代わりも兼ねてシェフたちの手首に紐を結んで毎年絆を祝っている。妻(千葉セーヌ)はネパール出身で、クリスチャンに改宗しているが元々はヒンドゥー教徒で、家族も全員ヒンドゥー教徒。そういう環境で育っているので、祭礼に対するシェフたちの気持ち(大切さ)をよく理解できている。シェフたちにとっては、そういう部分での安心感が大きいようで、それがアシルワードの店全体としてのチームワークにも繋がっている気がする(店主の感想)。
ラクシャ・バンダン(Raksha Bandhan)
兄弟姉妹の絆を祝うお祭りで、姉妹が兄弟の腕に「ラクシャ・スートラ」という保護の紐を結び、兄弟の安全と繁栄を願う。
アシルワードでは、シェフたちは故郷の姉妹と離れて生活しているから、店主の奥さん(千葉セーヌさん)が姉妹の代わりも兼ねてシェフたちの手首に紐を結んで毎年絆を祝っている。ネパール出身の奥さんは、クリスチャンに改宗しているが元々はヒンドゥー教徒で、家族も全員ヒンドゥー教徒。そういう環境で育っているので、祭礼に対するシェフたちの気持ち(大切さ)をよく理解できている。「シェフたちにとっては、そういう部分での安心感が大きいようで、それがアシルワードの店全体としてのチームワークにも繋がっている気がする」というのは、店主の千葉さんの言葉だ。
また、大切な(大切だと考える)場所にはどこでも何ヶ所でも神様を置くのは店主の千葉さんがインドらしさを感じる風習だそうで、たとえばアシルワードでは冷蔵庫にも神様のカードがマグネットで貼られている。反対に、トイレやその付近に神様を置く、貼るのは厳禁で忌諱される。そんなことを知らなかった千葉さんがトイレ付近にも神様のオブジェを掛けて、シェフたちにひどく怒られたこともあった。
それに近い話として、神様の近くではお酒を飲むのが御法度で、祭壇の近くにお酒があるのもダメ。ただ、これに関しては、どれぐらいの距離が離れていたらオーケーなのかと明確な基準などはないようで、あくまでも個人の心情によって判断されるよう。一方で、アシルワードでは店内のあちこちに神様のモチーフがあることがヒンドゥー教徒の来店者に安らぎを生むようで、特に、2階のテーブルから臨む大きなガネーシャは心に響くそうだ。
インドの食文化は、宗教、神話、そして人々の生活様式と深く結びついているに間違いない。それぞれの神様には、その神様の性格やエピソードに関連した特定の料理が捧げられることが多くあるようだ。
インドの神様
ここでは、いくつか例を挙げて、その背景や意味について詳しく解説する。
ガネーシャ神とモーダク
神様:ガネーシャ神
料理:モーダク(蒸し団子)
理由: ガネーシャ神は、お菓子が大好きで、特にモーダクを好むとされている。そのため、ガネーシャ祭りの時には、人々が手作りした様々な種類のモーダクを神様に供えてそのご加護を祈る。モーダクは、先端が尖った独特の形状をした団子で、その形が宇宙や完全性を象徴するとされています。また、甘くて美味しいことから、幸福や繁栄を祈る意味も込められている。
ラクシュミー女神とプーリ
神様:ラクシュミー女神
料理:プーリー(揚げパン)
理由:ラクシュミー女神は、富と繁栄の女神。プーリーは、黄金色に輝き、膨らんだ姿がコインに似ていることから、豊かさの象徴とされている。また、プーリーは、素早く簡単に作れることから、日常の食事として広く親しまれていて、家庭の繁栄を祈る意味も込められている。
シヴァ神とサダ(米)
神様:シヴァ神
料理:サダ(米)
理由:シヴァ神は、苦行と瞑想の神様であり、シンプルな食事を好むとされている。サダは、白く清浄な米で、シンプルでありながら、生命の源である米を神様に捧げることで、健康と長寿を祈る。
クリシュナ神とマッカン
神様:クリシュナ神
料理:マッカン(バター)をはじめとする乳製品全般
理由:牛の乳が重要視される農村文化で育血、幼少期にはバターを盗み食べるいたずら好きな一面があったことで知られているクリシュナ神。牛乳を使った甘い料理やスナックに特に目がないとされ、インドでは彼を思い浮かべながら乳製品を使った料理を供えることが多い。代表的なものは、牛乳で煮た米や穀物に砂糖を加えたデザートのキール(甘いミルク粥)。
終わりに
イタリアにいた頃は考えたことなくて、日本に住むことで日本料理もインド料理も神様からの贈り物だと感じるようになった。神様からの贈り物だからこそ、リスペクトしながら命に関わる料理を大切にしないといけない。
そして、食べられること自体は当たり前ではない。「今日も食べられる」ではなく、「今日も生きる」という考え方がわかったイタリア人の僕がいる。