見出し画像

Zenlyという呪縛

「Zenly」というアプリをご存知だろうか。私はつい最近知ったが、このアプリではスマホなどの位置情報機能を利用して、お互いがリアルタイムでどこにいるかやどれくらい端末の電池残量があるかがわかるようになっているらしい。

高校1年生になったばかりの妹は毎日のように、このアプリのことを母に話す。「今、友達の〇〇は電車に乗って移動している」「今日、××ちゃんはあのスーパーへ行っていたらしい」などと至極どうでもいい報告を母にして、母もどうでもよさそうに答える。

妹は嬉しそうに、得意げにZenlyのことを話すが、それはZenly自体の機能性や使い勝手、また単に友達の行動を伝えるものではない。女子高生や若者の間で流行っているZenlyを使う自分は紛れもないイマドキの女子高生であって、Zenlyについて語ることで「女子高生」としてのアイデンティティや、親世代には無い「イマドキ」を知っている若者としての自分を確認またアピールしているように感じられる。

確かにいつの時代にも流行りというものがあって、それぞれの年代や集団を特徴づける流行やモノが存在する。思春期やアオハルという言葉が付き纏う年代においては、友人や知り合いと何かを共有することがありそれが友情や同質性を高めるように作用するということは珍しくない。


だが、そうった事実はさておき、私はこのZenlyというアプリには強い嫌悪感を感じる。いくつかの利便性はあれどコミュニケーションや「つながり」というものが遂にこのような形になってしまったということに驚きを隠せない。位置情報を常に知られているなんて、まるで自分がペットか無くしたiPhoneにでもなった気分になる。

携帯メールやLINEに代表されるチャットアプリの登場により、我々のコミュニケーションはより即時的、同期的かつ軽率なものに変容した。それらは便利ではあれど、結果的にその手軽さから、「つながり」を強いるモノに成り果ててしまったと強く感じる。仲良しだからメールをし続ける、カップルはLINEをし続けなければならない、すぐに返信を返さなければいけない、既読が付いたのに返事がない、などといったことはもはや当たり前として認識されている。

しかし、これらこそが「こじれたつながり」の姿だということには多くの人が気づかない。これまで、「つながり」とは電子機器を通して相手を確認し合うものであっただろうか、電子機器の無い時代、世代の人にはつながりが無かっただろうか、常にチャットをせねば友情や愛情は保てなかっただろうか。無論、そんなことはない。我々の生活はメールやスマホ、チャットが無い時間の方が長かった。そして、不便や不自由こそは多くあれど、つながりはそれらが無くとも十分に存在できた。

今となってはなぜだかわからないが、緑のチャットアプリでメッセージを送り続けて、返信が来たら、なるべく早く返さないといけない。家族も友人も電車に乗り合わせる人たちも、皆そうしている。その同調圧力に負けて私もそうするよう努めている。

そしてさらに、Zenlyはそこに位置情報を加える。どこにいるかをさらす。チャットやメールはどこにいても確認できるし、どこにいても返信できる。返信したくないない時は忙しいフリをすれば一時的に返信を免除される。しかし、Zenlyやそのユーザーはそうはさせてくれない。位置情報が伝わると、そういったごまかしが利かなくなる場合が出てくるからだ。

位置情報がわかるということは同時にそこで何をしているか、何ができるかというのが大方想像できる。言い換えれば、位置情報は単なる位置情報以上の意味を持つ。誰かに何かを誘われて断ろうと思っても、家にいることがバレていれば「ちょっと外出しているから行けない」という文句は使えない。家にいることが自然に納得されるような最もな理由を捻り出さなくてはならない。私はそんなめんどくさい一場面ばかりを考えてしまう。

確かに、相手のことが知れて嬉しい。相手のことを知りたいという欲望は誰しもが自然に持つものだ。一緒にいなくても、離れていても相手の情報やメッセージが手に入るというのは技術の進歩によって得られた恩恵だ。だが、日常的なチャットやメールの連続的なやり取りに加え、相手がどこにいるか(さらに言えばどこで何をしているか)も知りたいというのはいささか行き過ぎてしまっているのではないだろうか。

開発した人に非は無いが、ある意味、実現してはいけなかったアプリなのではないだろうかとその高い機能性がゆえに感じる。さらに、現代社会では、もしこのアプリのインストールを友達や恋人に誘われて断ると、何かやましいことがあるのではないか、冷たい、ノリが悪いなどと思われてしまうのが見え見えだ。そうなると多くの場合、事実上インストールを断れないという現実も出てくる。

本アプリは若者の間で人気だそうだが、それは逆に言えば若者、特に私の妹のように知識も経験も浅い高校生前後の子、がオモチャ感覚で使用しているからこそ使いこなせているとも考えられる。様々なことを知って、プライバシーを知って、気遣いを知って、仕事をして忙しくなれば、相手の位置情報を把握することがどれだけ意味のないことか、心労をかけるものかががわかってくるのではないかと思う。


Zenlyのことを考えていると、Perfumeの「スパイス」という曲を想起する。この歌には「知らない方がいいのかもね〜」という歌詞が何度も出てくる。

世の中には「知っておいた方がいいこと」は数多くあるが「知らない方がいいこと」もまた同時に多く存在する。そして、待ち合わせなどを除いて、相手の位置情報は知らない方がいいことだ。いや、知ってあげない方がいいことだ。位置情報アプリを見るくらい暇な時でも、相手は忙しくしていることも十分に考えられる。

本当に相手を思うならば、アプリで監視のようなことはせずに、今頃どうしているかなと思いを巡らすくらいに留めてあげる方がベターなのではないか。Zenlyを開けば相手の居場所がすぐにわかってしまうなんて、これほど寂しい話は無い。例えば、何かサプライズで登場する場合や、こっそりプレゼントを買いに行く時はどうする?位置情報を知ることで、そういうお楽しみが台無しになることもあり得る。

相手の位置情報なんて見る暇があったら、さっさとタウンワークを見てアルバイトを探せよ、と妹には密かに思っている。


どこに居るかバレバレ

いいなと思ったら応援しよう!

サンキュハザード
頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)