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「マシマシ」にはしない方がマシ

数日前、人生初の「二郎系ラーメン」を食した。食レポという程ではないが、感想などをつらつらと。

二郎系ラーメンとは脂の浮いた豚骨スープに醤油ダレを混ぜて、中太ちぢれ麺と柔らかく煮た厚切りチャーシューにキャベツともやしを山盛りにしたラーメンのことを指すらしい。また、「二郎」という名前は本家本元の東京の「ラーメン二郎」からとられているらしく、熱狂的なファンも多い人気のジャンルらしい。

ラーメンは好きだが、二郎ラーメンはそのネーミングもさることながら、見た目がごちゃごちゃしているため、どこか敬遠している自分がいた。しかし、二郎系ラーメンばかり食べる友人が二郎系ラーメンの話ばかりするので、気になっていたということと、最近は「初めてのことをする」という自身のテーマが滞っていたので丁度いい機会だと思い、食べてみることにした。


ということで、京都市の一乗寺にあるラーメン二郎へ行った。一乗寺はラーメン激戦区と呼ばれていて、数多くのラーメン店がある。そして、関西唯一の「ラーメン二郎」もここ一乗寺にある。12時過ぎに着くとすでに列ができていたので、そこに並ぶ。見渡す限り男性しかいない。

列に並んでいる間に食券を購入する。並は麺約280g(一般的なお店の倍)、大盛りが麺約400g(一般的なお店の3倍)、半分が麺約180g(一般的なお店の並み)となっている。並みの少なめもあるが「少なめでも一般のお店より多いです」という但し書きがある。

つまり、どれを選んでもそれなりの量が来るのが特徴だ。男性客しか並んでいないのにも納得できる。私はかなり空腹だったので大盛りを選んだ。一般的なラーメン店では大盛りを頼んでもいつも「もう終わり?」という物足りなさを感じるので、それを踏まえて400gにした。

友人曰く、二郎は東京の三田という場所に本店があるが、それは慶應の学生を相手にやっていたので、このような満足感のあるラーメンになったのだそうだ。なるほど、食べ物にはその形になるまでのドラマやストーリーがあるのだなと思った。食べ物は闇雲にその姿を呈しているわけではないのだ。


食券を買って待っていると、並んでから20分程度で案内された。列に並んでいる時点で注文を通しているので、席に着くとほとんど同時にラーメンが出てくるようになっている。ここまでは一般的なラーメン店とさほど変わりは無いが、ここで二郎系ラーメンには独自の文化がある。

それは「コール」と呼ばれるものだ。店員さんが「ニンニクどうしますか?」などと聞いてくるので、ここで「野菜の量」「にんにくの有無」「脂の量」「味の濃さ」を選ぶのだ。ニンニク以外は基本的に入っているので、量を多くしたいときは「マシ」「マシマシ」ということをつけて頼むらしい。例えば野菜だけ増量の場合は「ヤサイマシ」という呪文を唱える。

店によっては麺の量と硬さを別でコールするところもあるみたいだが、本店舗は食券によってそれが決まるので、トッピングのみのコールだった。

私はニンニクを入れて、ヤサイマシにしようかと思っていたが、麺をかなり多くしているのでヤサイマシは控えておこうと思った。これは後にかなり正しい選択になる。そして、出てきたのが以下のラーメンだ。

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「これか・・・」と思った。もはや麺が見えない。だが、空腹のピークなので、すぐに割り箸を割って食べ始める。まず、キャベツともやしに食らいつく。トラックボールマウス大のチャーシューにもかぶりつく。「美味しい」とは少し思ったが、それが純粋な美味しさなのか空腹による誤認なのかはわからない。ただ、ひたすらに食らいつく。

具材を食べ進めると、スープ下に潜む大量の麺を認識した。私はそれらを救い上げて、一気にすする。箸で掴んでは、すするを繰り返す。だが、400gもあるため、その縮れた麺が減る気配はない。それでも慶應の学生気分でどんどん食べ進める。

5分くらい経つと、「美味しい」とは思えなくなってきた。確かに依然として空腹感はあるので、それを満たすために食べはするのだが、大量の脂が私に襲い掛かってくる。チャーシューも脂、野菜と麺にも脂が絡みついており、脂から逃れられない。普段は低脂質な食事をしているため、気分が悪いとまではいかなくとも、体力を削がれていくような気がした。

それでも必死に麺を掴んではすすって、胃の中に放り込む。私は「自分は何をしているのだ?」と思うようになった。あまりの非日常な食事体験に訳がわからなくなってきた。右手では箸を持っているが、左手ではカウンターの壁を触っていた。それは、和式便所で何かに掴まってバランスをとるように、あまりの苦しさにカウンターの壁で身体のバランスを取らざるをえなくなっていた。さらに、テーブルと服は飛び散ったスープで汚れてしまっている。

なんとか麺と野菜は食べ終えたが、2つあるチャーシューの塊の1つがどうしても食べられない。赤身の部分を極力食べたが、脂の部分はもはや生命の危険を感じたので、申し訳ないが残して店を出ることにした。その直前に店の人から「並んでいるので、食べ終わった人から店を出てください。食べきれなければ残してもらっていいので。」というアナウンスが店全体になされていた。これで諦めがついた。


少し前にラーメンについての記事を書いたが、やはりラーメンにおける「脂」というものは満足感、ボリュームの核をなすものなのであろう。さっぱりした醬油ラーメンを食べても、満足感という満足感は感じにくい。パンチがない。そこには背脂であれ、チャーシューであれ、「脂」の存在が不可欠なのだ。健康などは無視すると、我々は脂を食べると満足しやすいのだ。

また、ボリュームを出すために「野菜」をうまく利用しているとも考えられる。例えば、もやしは最近でこそニュースになるくらい野菜も高騰しているが、食材の中ではかなり安価に調達できる。もやしは安いが、大量に盛り付けることで圧倒的な視覚的・物理的なボリューム感を加えることができる。そういった工夫もが二郎系ラーメンを形成しているのだ。


「もう食べたくない」「もういらない」私はそう思った。なぜお金を払って、こんなにも不健康な食べ物(食べ物なのか?)を食べて、服を汚して、ヘトヘトにならねばいけないのだろう。二郎系ラーメンとは何故存在するのだろう。

しかし、それでも二郎系ラーメンは今後も無くならない。なぜなら、「また食べたい」と思う人が大勢いるからだ。私がどう思おうが、そこに「食べたい」という需要がある限り、供給は絶たれない。また一方、私がどれだけ「欲しい」「食べたい」と思ったモノでも、それがマイナーで大多数の人の需要がみられなければ、供給はなされない。

なるほど、需要と供給とは、まったく自分の主観とは別の次元で存在するのだということを二郎系ラーメンに教えられたのだ。


脂で満たそう


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