アートの深読み13・イングマール・ベルイマン監督の「冬の光」1962
イングマール・ベルイマン監督によるスウェーデン映画。「鏡の中にある如く」、「沈黙」とともに「神の不在」3部作の1点である。原題はNattvardsgästerna。「聖体拝領者」を意味するキリスト教用語で、英語名はWinter Light。日本語名もそれにしたがっている。いなかの小さな教会の話である。牧師(上図)のもとに集まる信者との人間関係をめぐり、愛と神の存在を問う。神の問題については、キリスト教徒でもなければ関心はないが、愛についてはわかりやすい。牧師(トーマス)を愛する女教師(マッタ)がいるが、牧師はどうしても好きにはなれない。かたくなに拒絶するのは、5年前に死んだ妻を、今もなお愛しているからだ。
日曜日の礼拝からスタートする。信者はまばら(上図)で、牧師はキリストの血と肉の話のあと、5人いたひとりひとりに聖餅と聖杯を口に含ませている。聖体拝領の具体的な儀式をそこまで時間をかけて写し出す必要があるのかと思うが、ワインとパンがキリストの血と肉にあたるという、キリスト教の象徴主義をみせることで、西洋社会に根づいた文化的伝統に触れさせる意図が感じ取れる。最後の場面もセレモニーで締めくくられるが、そこで参列するのは、牧師を愛する女教師がひとりだけである。牧師は気にすることなく、淡々といつものようにことばを紡いでいる。
はじまりのミサでは、連れられてきた幼児がひとりいて、退屈そうにしており、うとうとと居眠りをして、最後には長椅子に横になってしまっていた(上図)。ミサのあと信者が個別的に牧師を頼って、相談にやってくる(下図)。牧師は風邪気味で、体調はよくない。一組の夫婦が顔を出し、夫(ヨナス)のようすがおかしいので、話を聞いてくれないかと、妻(カリン)が依頼をする。中国の核実験のことを話題にしているので、政治的な悩みなのかとも思える。妻は自分がいないほうがいいだろうと判断し、一旦帰宅して、30分後に夫だけが戻ってくると約束をして立ち去った。
教会のスタッフには鐘撞きとオルガン奏者とマネージャーがいたが、夕刻のセレモニーの打ち合わせをすませて帰ったあと、礼拝に加わっていた女教師がやってきて、牧師の体調を気遣っている(下図)。彼女は婚期を過ぎていて、牧師はまとわりつかれるのを迷惑がっている。あけすけに愛を告白するのも気にくわない。周囲から変な目で見られることも気にしているが、妻の死後、2年間は彼女に引きずられながら、いっしょにいたようだ。博愛をかかげる職業柄、むげに断れないことがあったのだろう。
メガネをかけた近視であることや、身体中にできた湿疹に苦しむ姿も耐えられなかったようだ。自分は亡くなった妻を愛していて、あなたがその代わりにはならない。愛することはできないと、はっきりと断言するに至る。女教師から長い手紙をもらっていたが、切々とした内容を、読みとばして投げ出し、財布に忍ばせてあった亡き妻の写真を取り出してみていた(下図)。ことばとイメージの力くらべのようにみえて、興味深い箇所である。カトリックとプロテスタントの対立でいえば、ことばの力を信じるのはプロテスタンティズムなのだが、ここではそれの敗北が語られている。
30分の約束だったが、ずいぶんと遅れてやってきた男を、牧師は優しく受け入れる。何も言わない男を前に、牧師は自身の死んだ妻のことや自身の信仰のことを一方的にしゃべったが、心を開き自殺願望を取り除くことはできなかった。黙ったまま聞いていたが、男は無言のまま立ち去ってしまった。牧師は自身の無力と神の沈黙を嘆くが、このとき冬の光が一瞬、世界を輝かせたようにみえた(下図)。
その先には女教師の姿があった。牧師が心配で戻ってきたのだった(下図)。磔刑像の前で倒れ込んだ牧師を抱きかかえていると、先に礼拝にきていた老女が顔を出し、猟銃で頭を撃ち抜いて自殺をした男の報告をした。こんな時間まで女教師とふたりでいるのを、不審げな目で見ている。牧師はふたりの女を無視するように、すぐに自殺現場に車を走らせた。
女教師も牧師が心配で、遅れて現場にたどり着いた。そこでも牧師は近づいてくる女を遠ざけている。遺体を警察に引き渡し、待っていた女を車で学校まで送った。薬を飲んでいくように牧師を誘い、教室で待ってもらっていると、犬を連れた生徒が忘れものを取りにやってきていた(下図)。牧師は教会にも顔を出すようにと伝えるが、10歳の少年にとっては、居眠りをする少女と同じく、牧師の話は魅力的なものではなかったようだ。女教師は校内に住み込んで、叔母と同居していた。献身的な女の愛を、踏みにじる強い拒絶反応を示したのは、女が結婚をほのめかし、プロポーズをしたときだった。
このあと自殺者の妻に報告する道中にも、女教師は同行し、その足で教会でのセレモニーにも参列した。叔母には6時には帰るといいおいて出てきていた。誰も来ないなか、ひとりだけ信者席に座り、牧師を見つめている。オルガン奏者は準備をするために教会にきて、これなら中止かと思ったとき、女教師を見つけた。あなたは信者の数には入らないといいながら、彼女に近づき、牧師をあきらめるよううながし、死んだ妻が浮気女であったことを明かしていた(下図)。
愛を語るはずの牧師が一番、愛についてわかっていなかったようである。神についても疑っていて、確信をもてない態度が、神の沈黙と不在を嘆くことで、信者を減らしていったのだと察せられる。彼の名がトーマスであるのは、彼自身がキリストを信じることのできなかったキリストの弟子のひとり、「不信のトマス」であったことを示しているのだろう。鐘撞きが素朴な疑問を牧師に投げかけるのも、含蓄がある(下図)。死を前にしたキリストの苦悩は、弟子たちに信じてもらえなかったからだというのである。
加えていえばマッタ=マルタという女教師の名は、キリストの訪れをかいがいしくもてなした女性のことで、キリストに甘えるだけの妹マリアと対比をなす人物像である。「マルタとマリアの物語」では、キリストが愛したのはもちろん妹のマリアのほうであった。ここではそれを裏返し、マグダラのマリアへの痛烈な批判とも受け止められる。牧師はマリアにしか目は向かなかったのである。これは愛のふたつの形であって、二者択一ではない。牧師はただひとりの聴衆となったマルタも、愛することができるだろうか(下図)。
自殺をした漁師の名をヨナスにしているのも、キリスト教徒にはすぐ、「ヨナと大きな魚」の話を連想するからだろう。神を遠ざけた男が魚に飲み込まれ、信仰を取り戻すことで蘇生するという教訓譚だが、ここでは絶望することで自殺するというひねりが加えられていることも、読み取らねばならないのだと思う(下図)。
*ベルイマンについては、こちらも参照。