『孤独の科学』から学ぶ。(長文書評・読書感想)
『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』(河出文庫)
ジョン・T・カシオポ / ウィリアム・パトリック 著 柴田裕之 訳 河出書房新社 / 2018年2月3日発売
孤独感・孤立感には、高血圧や運動不足、喫煙などと同じくらいの健康リスクがあると言われています。本書はそういったステージからさらに深掘りした知見を教えてくれる良書でした。400ページ超の分量があります。
孤独感は、それを感じやすい人と感じにくい人がおり、また、感じた孤独への耐性では、強い人と弱い人がいます。これらは遺伝的に決まってくる要素だそうです。
「強迫症」や「認知の歪み」の大元に恐怖や不安があることはこれまでの読書などでわかってはいたのだけれど、では恐怖や不安の原因はなんなのかははっきりとはわかっていなかった。それが、エーリッヒ・フロム『愛するということ』を読んだときに、不安の源にあるのは孤独感だとあり、それでアマゾンで孤独に関する本を検索して、本書を見つけました。読んでみて驚いたのは、孤独感による自己調節機能の低下(自制心が発揮できないなど)や社会的認知の歪み(人とのつながりにおいてのその認知がうまくいかないこと)といったものが、不安による問題を抱えるうちの父の様子にぴったりと当てはまったことです。社会的認知の歪みに関して言えば、認知行動療法を施せると、多少なりとも効果はありそうに考えていますが、本書ではそういった療法については触れられません。社会神経科学者である著者なりに、日常的な方法でどうやって孤独感を軽減させるかを、本書後半部で示してくれていました。
p372からの数ページをまとめると、次のようになります。
孤独だと要求ばかりするようになり、批判的にもなる。(補足すると、自制心が低下しているので批判するときにキレていることもあるでしょう)。行動が消極的になり、引きこもりもする。
対処としては、思い込みではなく、その裏にある現実に目を向けることを心掛ける。そして、家族などは、そういった孤独な人に、守られていて安全だ、という気持ちにさせるために働きかけるのがいい。目の前の戦いでは降参ばかりだったとしても、長い目で見れば勝利を勝ち取れる。歪んだ認識は、論理的に正当化できない脅威の感覚に由来するものだと言ったところで、どうにもならない。感覚はあくまで感覚なのだ。不安感は、深い部分に根づいている拒絶感が原因である場合が多い(つまりは孤独感に付随する感覚でしょう)。
古来より「追放」という刑罰があったり、今でも「独房」があったりするのは、人間は人間同士のつながりを絶たれることがとてもつらい生き物だから。組織がすぐに排除によって秩序を守ろうとするのも、異物的存在を排外処置して純粋性を保つことのほかに、孤立させて懲らしめる意味合いもありそうです。
トピックとしておもしろかったのは、普通の表情の人より、激しい情動の人をみているほうが、脳の受け取るシグナルは強まるというところ。つまり脳がより活性化して、脳の発達にもつながる。この知見は、「アイドルを推すなら、できるだけ<全力アイドル>を推せ」という格言を生んでもおかしくありません。なぜなら孤独感に効くからです。孤独感や孤立感が流行してしまった世界では、表情豊かな芸能人が人気者になるでしょうか?
もうひとつトピックを。テロを起こす単独犯がマスメディアに「孤独な人」と形容されることはあれど、実際には孤独感を持つ人が持たない人よりも社交性にかけるわけではないことがわかっているとのことでした。問題なのは、孤独感のために本来の社交的技能を発揮できなくなる場合。ここ、大事だと思います。
ナチュラル・ボーン・キラーみたいに考えたほうが勧善懲悪のわかりやすい論理で割り切りやすい。でも、それは割り切りやすいだけであって、本当ではないのですよね。出荷時の状態というかデフォルトというかつまり、誕生時のことなのだけれど、そんな人間は敏感で可塑的で。だから悪も生まれるとも考えられる。誕生時は悪くないけど、そこから一秒ごとに揺れ動く存在が人間、っていう感じを覚えました。まあ、人間観自体も人それぞれですし時代によって揺れ動きますけども。性善説、性悪説、極端な2つがまず浮かびますが、そういう意味では性善説に傾くのかなあ。無人レジ設置時に性善説を引き合いに出す人がいたりします。でも、そんな基本モードとしての性善説人間でずっと生きている人もいないし、性善から出発したって人生の旅路でそれぞれ様々な経験をして変わっていくし、だと思うんですよねえ。
あと、短いトピックを最後に。疎外感を持った人は、寄付に消極的だし、誰かに制裁を与えることになるとより多くの罰を与えたがるのだそう。すぐに人を叩いて貶めようと躍起になる人ってネットにも現実にもいますけど、そうか、疎外感なんですねえ。
それでは、以下からは引用とそれへのコメントやまとめの記述となります。今回のこの感想・レビューはとても長いのですが、僕個人の勉強用でもありますのでご容赦ください。なにかのヒントや助言として機能したり、本書を読もう! という気持ちが生まれたりしたならば、とてもうれしいです。
では↓
→ 孤独感の影響とはどういうものかを踏まえる箇所です。チェックポイントとしても機能するところです。
→ なんでも他人のせいにする他責思考が顕著に表れるのならば、孤独感が募っているからなのかもしれない、と考えられる箇所です。<批判や責任から身を守ろうとする>ところは、「闘争/逃走反応」と呼ばれる状態の範囲にある振る舞いではないでしょうか。
→ ちょっとしたことなのに、それが大きな問題に思えてしまって頭がいっぱいになったりパニックになったりする。周囲から、大したことないよ、だとか、そんなに落ち込むな、だとか言われても、ほとんど心に響いてこない、というのが孤独感にある人の特徴的な様子なのでしょう。
→ ほんのつかの間でも、気晴らしをしたい、という気持ちが勝るんですね。こういうものを欲するほどに、孤独感を和らげたい、と意識下で切望しているのかもしれません。
→ 孤独な人は、自分の都合の良いように事実を切り取ったり、嘘までついたりして、自己弁護をしたりするのは、僕の父のふるまいから見知っています。で、その弁解を僕が試みるような場面があるのですが、それも第三者にしてみればほんとうかどうかわからず、僕のほうが自己欺瞞として脚色しているのではないか、と思われてしまうきらいがあり、そういうところは相談や議論のうえで難しいなあと思います。
→ 孤独感が前へ進むように駆り立てる、というところは、孤独感が不安や恐怖を生み、それが強迫観念になるからではないのかな、と僕は読みました。でも、実際にやる対処は後ろ向きなんです。恐怖もあるので、外に開いたような行動や、新たに一歩踏み出すような行動はとらない。僕の身近な人を見ているとそうなのです。たとえば、認知行動療法を受けに行ってみるというような行動はとりません。消極的に、そして他責思考で、相手に無理難題をふっかけて「なんとかしろ」というのが関の山だったりします。
→ 飲酒、喫煙、過食、性的依存、ギャンブルなどの行為がここで言われる自己破壊的行動です。社会的環境は大事で、時間やルールを守って規律的に行うたとえばヨガ教室に通うことなど、そうやって規範に身を置きそこで友人と声を掛け合うようなことが、孤独感克服にとっては有益なのだけど、孤独感ゆえにそういった行動への意欲は低下するのでした。
→ ここで言われる「耐えること」にくっつけて、別の箇所(p302)にあった実験の様子を記していきます。
一匹のサルにはキュウリのスライスを、別のサルにはブドウをご褒美としてあげたら、キュウリをもらったサルは投げ返してくる。「なんでオレにはキュウリなんだよ!」
ロバート・トリヴァーズという進化心理学者の先駆者が言ったそうなのだけど、サルにも十分わかっている通り、「ごまかしをする傾向が見つかったときに激しい攻撃性を見せる」ことが必要だ、と。孤独感によって自己調節がうまくいかないと、消極的に耐え忍ぶようになる。あるいは手を焼かせるまでの行動を取るようになるそう。
攻撃性を抑えつけて、いわゆる「大人のふるまい」をするのがよいのだ、と評価されがちなのかもしれなくて、自身でも大人のふるまいを心掛けたりしませんか。そういうのが逆に、社会を不安定にしてしまうのだと論じられていた。
僕ら日本人の多くが、大人しくて耐え忍びがちな人か、わーわー騒いで誹謗中傷に走りがちで手を焼かせる人かの両極端に見えるときがあるけれども、そういった人たちは孤独によって自己調節機能がうまくいかなくなったからかもしれないですよ。
→ ドラマとか小説にもでてきそうな、ある意味で劇的な「孤によるの痛み」の場面だと思います。関係性によっては、抱きしめることに大きな抵抗があってできなかったり、そもそも、彼(彼女)は抱きしめてほしいところなのだ、と気づけなかったり、なかなかうまく答えに辿り着かなったりするところなのではないでしょうか。オキシトシンというホルモンがストレスホルモンのコルチゾールを減らすのですが、人とくっつくとそのオキシトシンが出るそうなのです。
→ 孤独に対抗する手段として、オキシトシンの有効性が論じられている箇所です。安心できる人と体をくっつけるその優しさに、こういった効能があるのはすごいですよね。
→ 進化してもなお、人間には太古の記憶として、孤独つまり一人きりなると危険だ、他の動物に襲われるぞ、というシグナルが埋め込まれたままでいます。そして、「闘争/逃走反応」が生じて、コルチゾールが分泌され、心拍数が上がるなど体に負担がかかるばかりか、批判的になったり文句をいったりなど「闘争」して他者との関係をこじらせたり、自分のミスを受け入れずに誰かのせいにして「逃走」したりし、さらに他責という「闘争」に繋がったりするのでしょう。
→ うまく輪の中に溶け込めず、上手な返しや合いの手も入れられず、場のテンポがちょっと変わってしまう。僕自身がそうなることもありますし、そうなってしまう人といっしょの輪にいたことも何度だってあります。僕はそういった人のふるまいについてはかなり寛容で、フォローするタイプですが、自分がなにか場の空気に合わないとき、なかなかサポートやフォローしてくれた人っていませんでしたね。こういうときのフォローって、孤立を深めないための、好い行動にあたります。
→ 何か良くないことがあったときに慰めてくれる人のその行為はありがたいですが、それよりも、良いことがあったとき(昇進など)に喜び合ったほうが自分と相手の二人の関係にとってより大きな意味合いを持つ、つまり大きなポジティブな効果が得られるそうです。言われてみて想像するとそうかもしれない、と思いますが、慰めのほうが大きな意味を持つだろう、というように錯覚してしまっていたところです。
→ 他者の幸せな状況への反応が鈍くなることが書かれていますが、これって、それゆえにますます人とのつながりを強くもてなくなりますよね。孤独感による悪循環の例ではないでしょうか。
→ よくない思い込みというものは、現実にも不利な状況を招いたり強化したりしてしまう。心理学で「自己成就的予言」「予言の自己成就」と呼ぶ心理作用があります。「そのうちこうなるんじゃないか」という思い込みが、ほんとうに現実のものとなってしまうのです。思い込みにすぎないものが、無意識のうちにその人の振る舞いに反映されていき、その結果、予言(思い込み)が現実のものとなるのではないか、と考えられているそう。で、ここで言われているのは、孤独感はそういった自己成就的予言を招くものだ、ということでしょう。
→ 人生がうまくいくためには、たくさんの不合理を受け入れる必要があるのだけど、たとえば希望を持つことが不合理だと考える人はあまりいないようにも感じられます。孤独感に苛まれている人が抱えてしまう思い込みは、認知のプロセスで近道を通ろうとする欲求から生まれうるともありました。それはつまり合理的にやっていきたいという欲求だと言い換えることができます。孤独感に苛まれる人は、合理的な方向へ傾いていくので、希望を持てなくなっていきます。つまり、不合理を避けていくようにもなるのではないか。
→ 親が、自分のためにやっているのに「子供のためだ」と言い切ってしまうことって多いですよね。本書には書いてありませんが、こういった型にはめる行為自体が、子ども自体に、「自分のことを考えてくれない、わかってくれない」という感情を抱かせて孤独に追いやってしまいかねないのではないかなあ、と考えてしまいました。
→ 「まず私を癒して!」と強い孤独を抱える人が叫んでも、なかなか助けを得られはしないのが現実です。自分が癒され、満たされるためには、自分から他者に手を差し伸べることで自分が満たされる効果があることが、ここで述べられています。ただ、注意するべきは、働きかけが干渉になってしまったり、自己満足に捉われて他者のことに思いが及んでいなかったりするような「手を差し伸べる」になっていないかどうかです。そのような行為では迷惑になってしまいますから。また、p367には、<孤独を感じると、ついつい相手を喜ばせたくなるという罠にも落ちる>とあります。一人を助けることに成功すると、あの人もこの人も、と手を広げ過ぎてしまうきらいが孤独な人にはあるので、「ただの人間であれ」と著者は言葉を添えています。
→ この箇所は、個人的にすごく頷くところです。母の病気が再発して家庭の状況もさらに難しくなった15年前くらいに、母の主治医から父が、「誰かに愚痴でももらさないと、あなたがつぶれるよ」と言われました。父には、家庭の状況を話せる友人はいないし、母方の親族に話しても暖簾に手押しみたいで、僕に愚痴るようになりました。1時間かそれ以上語るわけです。そのうち、母にも愚痴るようになりましたが、母の件で母に愚痴のですから、それはもう批判であり文句なんです。父はそうやって崩れていった部分もあるなあと思いました。
→ 著者この後に、疑似社会的関係は代替的なものだから、やっぱり人と触れ合うのが大切なんだ、と説いていきます。疑似社会的関係の効果は限定的なのかもしれません。それと、古代ギリシャの哲人は、「擬人化」という概念を言葉にしましたが、それもこの疑似社会的関係のありかたと似ていることが指摘されています。
孤独の強い人ほど、擬人化する傾向が強いとあります。雨の音に親しみを感じたり、机に掘られた落書きに掘り手を豊かに想像したり、小野小町が言葉にした「あはれ」の感覚だったり、豊かな詩情って強い孤独感が育むものなのかもしれないですね。ですが、恐ろしいことに、擬人化する方面の感性の鋭さは、つまりは認知の歪みであって、脳の動きがちょっとよくなくなったためで、いわば錯覚ということみたいなんです。大いなる錯覚による詩情に、大勢が共感したり心を揺さぶられたりしているのでしょうか? 脳の構造上、孤独感によって誰もが同じような傾向の歪みを持つからかなのかな、と思いました。
→ お金のことを考えていると孤独にはまっていきやすい、ということですね。先ほど(p274-275)の知見と合わせると、お金によって希望という不合理なものとも縁遠くなる。つまり、お金のことばかり考えていると合理的になっていくのだろうと、わかってきます。楽観性を失って、不合理さに手を出せなくなると、人も社会も発展が難しくなっていくだろうことが想像できます。
→ 聖徳太子(厩戸皇子)が言ったという「和を以て貴しとなす」を、表面的にやっていたらうまくいきませんよ、ということにもつながっている知見です。和をもちたいのならば、違反者に対してはきちんと懲罰をすることが必要。それが暗黙のルールであっても、違反は許さないことで、そのグループや共同体の平穏は維持される、ということでしょう。
→ 最後の引用になりますが、本書の終盤部分なので孤独による影響のまとめになっています。孤独感が、QOLを低下させ、創造性のポテンシャルも発揮しづらくさせる。孤独感や孤立感に対するケアやキュアがもっと盛んになれば、社会はもっともっとうまく、かつ心地よく回るのではないかな、とそんなイメージが湧いてきました。孤独担当大臣がイギリスに生まれたのは、こういったような知見から危機感を覚えたからなんじゃないかと思います。日本でも孤独担当大臣がいますが、他国に追随しての措置ではなく、ヴィヴィッドな危機感をもって取り組んで欲しいですね。
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というところまでです。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます、お疲れさまでした。「孤独感」とはそもそもなんなのか、そして僕らはいったいどのような影響を受けているのか……なんて考えてみようとしても、これだけ奥が深く、危機の要素が満載だなんて、なかなかわからなかったです。本書によって深く知れると、孤独感についてのさまざまな知識がつきますからなんだかいろいろと対処できそうな気分になってきます。ちなみに、今月1日から、「孤独・孤立対策推進法」が施行されています。興味のある方は、検索してその法律の概要部分だけでも読んでみるとよいと思います。
というところで終わりにしたかったのですが、書き忘れたトピック・感想がもうふたつありましたので、それを最後に添えて終わります。
ではでは。
①ヤンキーって徒党を組むもので、孤立感から逃れるためにチームに加わるという意味あいがあると取ることもできる。世間のマイルドヤンキー化って、反社会的行為までは行きたくないけど意識下で孤立感から逃れるスタイルとしてそれを選んでいたりするのかもしれなくないでしょうか。
②そこで言っていいか否か判断ができて、行動すべきなのかだめなのかもちゃんとわかれば、心の内で何を考えていてもいい「内心の自由」ってすごくいいなと思うんです。憲法のいいとこです。やれ煩悩だ、良からぬ情欲だ、怒りや憎しみだ、それらは思ってもいけないことだとする宗教は、僕はちょっと苦手でして。孤独や孤立が現代に蔓延しだして、そういった人々に宗教が社会的つながりを提供することで、彼らを吸収していく。日本の新興宗教に限らず北米にはメガチャーチがあったりするようです。でも今やそこにメタバースやヲタ活が割って入って台頭している感じなのでしょうかねえ。僕は後者のほうが性に合います。
以上です。ありがとうございました。