未来は僕らの手の中になんか収まるわけがないだろ
小学生の時は、法廷ドラマやゲームの影響で弁護士に憧れた。
中学生の時はひたすらライトノベルを読み耽り、ライトノベル作家になりたい気持ちがあった。
高校生になって工業デザインに興味が出てきて、デザイン工学系の進路を希望した。
色々あって今、在宅で図面書きをしながら家事育児をしている。
さぁ、こんな未来を小学生の僕は予想できただろうか?
30年の人生の内でも4〜5年先の見通しさえ立たないのだから、人生設計なんて言葉を正直馬鹿馬鹿しく思う。
詰まる所、未来なんて言うのは僕らの手に負える代物では無いのだ。
肝心なのは如何様な結果の未来が訪れても、理想を高く持たずに受け入れられるだけの余裕を持つこと、余裕が無くても現実と向き合える気構えが大事だと、この30年余で学んだ。
明日のことは分からないと言う心構えでいるからこそ、「人生設計」「キャリアデザイン」などという影も形もないものが嫌いだ。
過去に所属していた会社で「キャリアデザインセミナー」なるものを受けさせられて腹が立った。お前の会社が潰れたらキャリアはどうなるんだ!
都度の目標設定は必要かもしれないが、人生単位キャリア単位というコントロールしようの無い長いスパンを計画する事それ自体が、ちょっと無計画では無かろうか。
でも小学生の頃の人生設計を概ね実現している大谷翔平選手はすごい、心から尊敬する。
どちらかと言うと刹那的な生き方をしたい方なのだが、そこに持ち前の貧乏性と小心者が重なってくると、どうしても思い切ったお金の使い方や気持ちの良い生き方が出来ない。
極貧を味わったことが無いからこそ極貧が怖い。
ギャンブルが嫌い。投資が好き、積立NISAが好き。
いつふとしたきっかけで死んでしまうかもわからないが、少なくともその要因を自ら招き入れるようなことはしたくないと思う。
いつ来るかもわからない死に怯えながら、それでも1,2年先も暮らしていけるように蓄えを残しながら慎ましく暮らしている。そういう生き方しか出来なくなった。
「しなやかに生きている」と、親に珍しい誉められ方をしたことがある。
しなやかというか柔軟さは自分の長所であるが、それは自分の中に確たるものや自信がないことの裏返しでもある。
この人生、ある程度流れに身を任せつつ職や暮らしを変えつつも、そのなかで自分の哲学みたいなものを磨いてきたような気がする。
流されていてもその中で自分の姿を磨いていく、流木のような人間になりたいなぁ。