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「楽しい」の火種の声

雨が降った次の日の、春一番のような力強い風に乗ってやってくるのは、雪の粒子をまとっていそうな冷たい空気。
部屋の中にいると、結露する窓の外から聞こえる悲鳴のような風の声に、少し胸がザワザワする。
一歩外に出ると、顔が冷たい。耳が冷たい。指先が冷たい。

冬の気配と、春の気配を交互に感じながら
少しだけ、心の整理をしておこう。


少し前。
父が、退職の日を迎えた。

といっても、まだやることがたくさんあるようで、忙しくしている様子だ。

美味しい“料理”と、美味しい“お酒”。
それに今月は、美味しい“チョコレート”と、お祝いの“ケーキ”。
「これまで」の話と、「これから」の話。

食卓が賑やかに、華やかに彩られる日がポツポツと訪れている。


「感謝」と「尊敬」だけは。


父のことを、尊敬していること。
これまで育ててくれて、感謝していること。
色々な思いがある中でも、この2つが、しっかりと伝わっているといいなと思う。


たとえば私が子供の頃、無邪気に目の前のことだけを考えて生きていられたこと。
たとえば同じ場所で、何十年も勤め続けること。

…それだけでも、本当にすごいことだと、心から思うのだ。

家族に心配をかけない、とか
色々な価値観を持った人がいる環境の中に通い続ける、とか

その難しさを知っている今だからこそ。
「感謝」していることと、「尊敬」していることだけは必ず伝えないと、私はこの先間違いなく後悔する。
言葉で、態度で。これからもずっと伝え続けていきたい。


…そして、今。
父と同様、私自身にも大きな転機が訪れようとしている。

ついに、自分だけの音楽教室を持つのだ。

偶然にも
父が独立したのと同じ、30歳の今。


一円も生み出さないこの時間が。


何もかも、知らないことばかり。

何から始めればいいかわからないし
場所はなかなか決まらないし
著作権などの法的な難しいことに頭を抱えて

ロゴを作ったり
ホームページを作ったり

人生で最大の買い物もした。

同時進行で続くピアノのレッスンと試験対策。


…でも、忙しいことが、ちょっとだけ嬉しかったりもする。
私にとって「不本意なお休み」は、結構しんどいのだ。

これまで
週5日、一日8時間働いて、ようやく自分が「普通」になれたと思っていた時。
お給料を手にして、生活が厳しいと嘆きながらも、自立しているということに自信を持っていた時。
…その時よりも、今の方がおそらく大変な生活であるにも関わらず
仕事としての時間を楽しめている。

「一円も生み出さないこの時間が、きっとこれから先の何かにつながっている」と信じて動き続けられるのは、きっととても幸せなことなのだ。


怒涛の日々は
一人だから、不安で、面倒で。
一人だから、気が楽で、自由だ。

「楽しむことが大事だ」と時々色々な人に言われるけれど
「楽しい」という気持ち
は、大きく膨らんでいるわけではない。
けれど“火種”のように、静かに心を燃やしてくれている。

これから少しずつ、大きく育ってくれる予感がする。
『ヒロシのぼっちキャンプ』で焚き火を頻繁に見ている影響からか、「種火から焚き火」へと育っていくイメージが、常に頭の中にある。


自分で言うのは少しおかしいかもしれないが
父と母への1番の親孝行は、私が毎日楽しく、幸せに過ごすことだと思う。
これまでたくさん心配をかけてしまったから

私の生き様をもって、幸せを証明できること。

言葉や態度で「感謝」と「尊敬」を伝えるよりも
きっと一番強く、正しく届くような気がしている。


教室の場所が決まり、鍵を手に入れた。

一人暮らしのための新しい部屋に、初めて鍵を通す時とは少しだけ違った気持ち。「自由な職場」という新しい感覚だ。

ここに植物を飾ろうかな。
このテーブルと椅子がいいな。
清潔感だけは気を配ろう。
こういうサービスがあるといいかもしれない。

組織に属していることでやりたくてもできなかったことや、誰かに左右されてしまうことが減って、自分自身が少し楽になること。
これが独立を考えたきっかけだった。
このワクワクを、忘れないようにしよう。


「きっと、楽しくなるよ」


と、「楽しい」の火種が囁いたような気がした。



2025.2.18

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